September 16th, 2011

2011年9月11日聖霊降臨後第13主日聖餐礼拝説教「赦すことの大切さ」”The Importance of Forgiveness:岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

マタイによる福音書18章21-35節

「赦すことの大切さ」          “The importance of forgiveness”

私たちの父なる主イエス・キリストから、恵みと平安があなた方にあるように。アーメン。 

10年前の今日9月11日の朝、皆さんは何をしていましたか? 朝の9時ごろだったと思います。テレビをつけて、ニュースを見ようとしたことろ、突然 New YorkのWorld Trade Center に、飛行機が飛び込んできたシーンのを見たのです。これは、すでに起こったビデオでしたが、何と言う恐ろしい事が起こったのかと思っていた矢先、今度はまた考えられないような事、それはこのビルが上の方から地上までものの2,3分のうちに崩落していったのです。その後、また同じことが起こり、Twin tower と呼ばれていた、もう一つのビルに、これまた、もう一機の飛行機が突入したのです。そればかりではなく、もう一つの飛行機はアメリカ国防省のペンタゴンというビルと突入しました。そして4つ目のハイジャックされた飛行機はワシントンDC の国会議事堂、あるいはWhite House に突入することを目的としていたらしいのですが、その途中ペンシルベニアの山麓に墜落したのです。

テレビの時代になってKennedy 大統領の暗殺事件以来の大きなニュースであった聞きました。2753人がこの事件で、命を落としたのです。それは70国からの人たちを含みます。お父さん、お母さん、息子、娘、兄弟、姉妹を亡くされた家族を思うと今でも涙が出てきます。この後、アメリカは、アルカイダ、そしてイラクのフセイン大統領とアメリカ、世界の秩序の敵として戦うようになったのです。人類の歴史は戦争と平和の連続です。私は第2次世界戦争の後に生まれて日本が戦争に拘わったことを経験していませんが、両親、祖父、祖母の時代にも明治維新の時代も、戦国時代、源平の時代にも戦いがなかったわけではありません。戦い、戦争、喧嘩がいつも、どこかの国、民族の中で続くのは私たちが自分、自分たちが正しい、自分たちの意見が一番、自分たちが他の人たちより優れているという考え方から出てくるのです。

自分が正しい、自分の意見が一番だと考える私たちは知らず知らず他の人たち、それは、両親、兄弟、姉妹、友達、仕事の仲間の中でも、意気投合することが難しい状態を作ってしまうので。はっきり言って愛し合うこと、お互いを大切にする、赦しあうことは必ずしも優しいことではありません。しかし、神様であるイエス様は私たちに私たちの人生の中で一番難しい戒めを今日の創世記と福音書の中で語っているのです。それはお互いを赦し合うことです。

ヤコブの13人の息子たちの一人、ヨセフが余りにも自分は父のヤコブに一番愛されていると自慢していたのを我慢できなくなった兄弟によって大きな穴に落とされました。その後、見つけられた駱駝の商隊によって助けだされたのですが、エジプトで奴隷として売られたのです。ヨセフが自分の兄弟に対しての赦すことのできな怒りは非常に大きかったと想像します。何年、何十年もたち、イスラエルでの飢饉で食物をエジプトまで求めてきたヤコブの兄弟が、その時、王様の側近とまでになったヨセフと対面し、本当だったら兄弟たちを牢屋にぶち込むほどの怒りがあったはずです。自分の正体を明かさずにそれを水の泡に流して赦してやった。それどころか、沢山の穀物を与えて兄弟たちをイスラエルに帰したのです。

同じように、今日の福音書は王様が借金のある僕に返金をするように命じたところ、「少し待ってください、必ず王様返金しますから」と言われ、王様は哀れに思い僕の負債を取り消してあげたのです。この王様は寛大でした。しかし負債を赦された僕は彼に借りのある者を見つけ、首を絞めて「借金を返せ」と命じたのです。「どうか待つてください、少し時間を下さい、必ず返しますから」と頼んだ僕に王様が寛大であったのと反対に、この僕を金の返還ができるまでといって牢獄にぶち込んだのです。

35節の王様の言葉はこの悪い僕だけにではなく、私たちにも語られている神様からの言葉です。聞いてみてください。「あなた方めいめいも、もし心から兄弟を赦さないならば、私の天の父もまたあなた方に対して、そのようになさるであろう」。ここで聖書ははっきり語っているのです。神様から哀れみを受けた私たちはお互いを赦すことを命じられているのです。

少し時間をあげますから、人生の中で、誰から虐めらた、騙された、貶された、暴力を受けた。そんな経験を覚えていますか。それが大きなこと、小さなことにしろ、私たち一人ひとりが必ず経験してているのです。そのような経験の中で、人生真っ暗になった時があったと思います。あなたに被害を与えたその人を赦すことができますか?できましたか?

旧約聖書では「目には目を歯に歯」という考え方はイエス様の出現する前の一般のユダヤ人の報復、英語で言うRetribution として一般から認められていたのですが、イエス様はこの考え方にチャレンジされたのです。誰かから意地悪の言葉をかけられた。かあっとなって「何だお前」と大声で答える。こぶしが飛んで来て鼻血が出る。「このやろう」と言って取っ組み合いの喧嘩になる。周りの人はこの二人を引き離そうとするが、喧嘩はさらにエスカレートして一人は棒を振りはじめる。相手も石を拾ってそれを喧嘩相手に投げつける。最後には二人ともへとへとになって地面に倒れる。それは惨めな姿です。

このような喧嘩は男の人のやることと思いがちですが、時には、女の人もすさましい。Irvine  のCostcoで見たのですが、ある東洋人のおばさんが、会計のところで、どうもお釣りのことでごたごたしているのを見ていた時、急に、このおばさん、言葉の問題があったのか、自分の母国語で怒鳴りだしたのです。その声が、お店のあらゆるところまで聞こえてくるようなそれはすさまじいシーンでした。お店の店長さんらしい人が、このおばさ見ている感じになりました。私は家内との喧嘩になりそうなときには逃げるほうで、対決するのは苦手です。もう一度聞きます。もしあなたが、誰かから悪いことをされた時、あなたは「私はあなたを赦します」と言えますか?神様が私たちに教えてくれたことの中で、「赦す」 “Forgive”と言うことは非常に難しいことなのです。旧約聖書の中で、3回まで赦しなさいと書いてあります。しかしイエス様の教えは旧約聖書の教えを乗り越えています。ペテロが赦しは7回までしなければなりませんか?とイエス様に質問した時、イエス様は言われました。「あなたに言っておく。7回どころか、7の70倍までも赦しなさい。」つまり赦しは永久に続けなくてはならないのです。

私は、所詮罪人ですが,クリスチャンとして神様から赦された者であると確信しています。イエス様は、私たちの受ける聖餐式の中で、イエス様の体とその尊い血によって私たちを赦してくださっているのです。

神様の許しは神様の愛と同様に計り知れない私たちへのギフトなのです。5歳になる男の子がお母さんとの約束を破りました。彼はこっそり自分の部屋に入ろうとしていたところを、お母さんに見つかって言われました。どこに行くつもり?」「自分の部屋です。そこで神様とお話したいから」。お母さん続けて言ました。「お母さんに話せないことがあるの?」「うん、お母さんは僕を叱って、あれやっちゃだめ、これやっちゃだめって言うけれど、神様は僕を赦してくれて、悪いことしたことを忘れてくれるから」。では大人の私たちはどうでしょう。私たちに赦す心、能力があるのでしょうか?

次の聖書の話を覚えていますか? お父さんが家の門から通りの彼方まで走っていった。そこに、いつか帰ってきてくれよと願っていた年下の息子を見出したからです。両腕の中に息子をしっかり抱きしめて本当に嬉しかった。ホーム・カミングのお祝いを催したのです。それもこの息子がお父さんの大金を無駄使いしてしまったにもかかわらず。過去のことは過去のこと。大切なのは明日に向かって生活することです。

この放蕩息子へのお父さんの愛はたいしたものです。これが私たちの天の神様、イエス様の愛である訳です。子供によって傷つけられたこのお父さん、世間からは常識のないお父さんと私たちは見てしまう。しかしこれが私たちを心から愛してくださる父の愛であり、私たち、イエス様を信じる者は天のお父様の愛、限りなく寛大な愛を頂いているのです。イエス様に赦された私たちは、お互いを愛する、大切にする、自分の兄弟、姉妹として愛し,ゆるし合う関係を築いていかなければなりません。

最後に、Forgiveness, 許しは人生の過程であることを知ってください。この先私たちの人生で、また怒りに駆られ、人との関係が難しくなることがあると思います。しかし、わたしたちはお互いを何回も何回も赦さなければならない時が来るのです。これをイエス様は7どころか7の70倍しなさいと言った理由です。

人生が意義あるものになるためには、何回も何回も私たちに拘わる人たちを赦しなさい、そして許しがあるところには和解の場ができるのです。和解の場が出来るところには平和、平安が訪れるのです。アーメン。

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