September 23rd, 2011

2011年9月18日聖霊降臨後第14主日聖餐礼拝説教「神の葡萄畑で愚痴る者」”Sour grapes in God’s Vineyard” 岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

マタイによる福音書20章1-16節

「神の葡萄畑で愚痴る者」”Sour Grapes in God’s Vineyard”

私たちの父なる主イエス・キリストから恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。

私は都会育ちですからお百姓さんの仕事とはあまり縁がありません。しかし私が神学生として4年間勉強したPennsylvania
のGettysburg の産業は主に農業で、見事に実った小麦、見渡す限り全てがひまわりの畑、そして私が一番興味のあったのはだいだい色のかぼちゃ畑でした。かぼちゃは日本でもありますが、一つ違うのはその大きさです。大きさがスイカのように4ポンドドほどのものが多い中で、中にはお化けかぼちゃもあるのです。とても一人で持ち上げることのできない100ポンドほどのものもあり、なぜ神様はこんなお化けかぼちゃを創造したのかと思うこともよくありました。

アメリカのお祭りの一つにハロウインというお祭りがありますが、そのお祭りの飾り付けに必要なものはこのかぼちゃで、そのかぼちゃに彫刻をするのです。もっとも私が子供たちと作ったものは怖い顔のかぼちゃでした。ところでこのかぼちゃを畑で収穫するのは思ったより大変な仕事です。最初に働く人を探します。カリフォルニアでは出稼ぎのメキシコ人が多いようにペンシルベニアにはプエルトリコ人がこのような仕事にかりだされます。お百姓さんはトラックで街角にたむろして仕事を探している人たちをPick up して畑まで連れてゆき、そこで一日$50の約束で働いてもらうのです。一日中一つ五キロのかぼちゃを畑からトラックまで運ぶ、ろくに休憩の時間もありません。朝6時にPick up された人達は一生懸命働いていましたが、それでもこの仕事は終わりそうもないとお百姓さん、12時にまた同じ街角まで行ってそこでたむろしていた何人かの人を連れてきたのです。3時になってまた5時になって、新しい働き手がPick up され仕事に加わりました。さて6時になり最後に雇われた人が先に給料を受け取りました。50ドルです。これを受け取った人は笑顔でホクホクです。次に3時に、そして12時に雇われた人。50ドルの約束でしたが、それに何かプラスの賃金をもらえるだろうと思っていたにですが、同じ50ドルを受け取りました。その顔は不服な顔つきです。6時に雇われた人たちも同じ50ドルを受け取りましたが、この人たちはこわばった顔つきで、お百姓さんに言いました。「私たちは一日中、12時間休みもなく働いたのになぜ3時間しか働かなかったものと同じ給料なのですか。それは不公平ではありませんか。私たちはあなたから100ドル受け取るべきです」。

もちろんこの話はブドウ畑が、かぼちゃ畑に変わっただけで聖書のイエス様の話の内容と同じです。この話は会計とか、経済とか、労働ユニオン、Labor Unionの話ではありません。この話は神様の恩恵、恩寵、好意、慈悲、ギフトについての話です。This is all about the GRACE of God.

神様はすべての物の作り主、管理人なのです。神様は、神様の意思でこの恩恵、Grace を私たちに与えてくださっているのです。このGrace,恩恵は、わたしたちが神様から私たちに無償 に与えられているのです。

朝早く働きに来た者も、昼から働きに来た者も、たった3時間しか働かなかった者にも、神様は同様な恵みを与えてくださっているのです。神様はたくさん仕事をしてきた人たちにそれなりの報酬をしないのですかと質問するのは当然と思われますが、神様の私たちへの愛はすべての人に神様の見方で平等に与えられているのです。

イエス様が十字架につけられた時、その隣の十字架に犯罪人としてつけられた一人はこう言いました。「イエスよ、あなたが御国においでになる時には、私を思い出してください。」それに対してのイエス様の答え覚えていまか? イエス様は答えて言いました。「よく言っておくが、あなたは今日、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

この男は犯罪を犯した者、それがどんな者かはわかりません。しかし惨めな人生を送ってきたような男、しかしイエス様の噂は聞いていたと思います。そのイエス様の隣、それも十字架にかかった、その辛い、人生の命ももう消えようとしているその時、「あなたは私と一緒にパラダイスにいるであろう」と言われたなら、それほど光栄なこと、それほど涙が出てくるようなすばらしい福音ではないでしょうか?

この男はイエス様を知らなかった。しかし聞く話によると、イエス様は世の中で皆から嫌われているもの、罪人と言われる者達を哀れんでくださるお方だと言われている。イエス様は私たちがどんな罪人でも私たちを赦し、愛してくださるのです。神様が私たちを愛してくださると言う時、誰が一番愛されているかとの質問はいりません。何故なら、この惨めな私も、あなたも、イエス様、神様にとっては#1の愛の対象であるからです。愛に順番があるのは人間の世界だけです。神様の愛は平等です。しかし、愛さ更に言うなら、私たちの一人ひとりはイエス様の愛の対象#1であるはずです。私たち人間にとってそれはできませんが、神様、イエス様にとっては、私たちすべてが神様の愛の対象#1なのです。そして、神様はすべての人をいつかは神の国へと招いてくださるのです。

Reader’s Digest にJim Williams と言う人が書いたものを皆さんに紹介しましょう。私がある夜、規制スピードを超えてハイウエイを走っていたとき近寄ってきた車が私のすぐ後ろにつきサイレンを鳴らしました。車をハイウエイの脇に止めて窓を開けるとお巡りさんがやって来て何も言わず、フラッシュ・ライトで車の中を点検しました。最初に私の顔、そして妊娠7ヶ月目の家内、そして18ヶ月目になるベイビー・カー・シイトで眠っていた娘、そしてぐっすり眠っていた3人の息子たち、そして最後にこれ又ぐっすりねむっていた二匹の犬を見たのです。ゆっくりと、おまわりさんは私の顔にフラッシュ・ライトを向けなおし言いました。このところは英語で本のなかに書いてあったとおりに言いましょう。 “Son,” he said.  “You can’t afford a ticket.  Slow down.”  And with that, he returned to his car and drove away.お巡りさんはわたしにTicket を出して当たり前だった。しかしそれは忠告にとどめて、大切なことを言ってくれたのです。「車の中の宝物を大切にしなさい、家族の一人ひとりを守りなさい」とのお巡りさんの言葉は、まさに、私にとって神様からの言葉のようだっのです。

もう一つ伝説の中の話を紹介しましょう。お母さんとまだ幼い少年の話です。ある日少年のお母さんは病気になりました。お母さんを元気にしてあげたいとの思いで村の花屋さんにお母さんお好きなバラの花を買いに行きました。しかしお店の花はみな売切れです。ああお母さんにお花を上げたかったのに残念と心落ちして帰る途中、すばらしい庭園を見つけたのです。綺麗なばらの花が沢山咲いていました。そこにgardnerを見っけて、もしバラの花を売ってくれないかと頼んだのです。Gardnerは言いました。「この庭園は王様の持ち物で、売ることはできません」と。少年は涙を流して自分に言いました。「それでは何時かお母さんをおんぶしてここまで連れてきてあげよう。この素晴らしいバラを見たらお母さんの病気も良くなるでしょう」と。その時です。少年を呼ぶ声が庭園の中から聞こえました。それはプリンス、王様の息子の声です。「庭の花を売ることはできないけれど、その花をプレゼントすることはできますよ」と。そして両腕にいっぱいになるほどのバラを少年に与えたのです。これは神様と神様の国でも同じです。神様の国に入るメンバーシップはどんな価格でも買うことの出来るようなものではありませんが、親切で慈悲深い神様より無償で自由に与えられるのです。

これが私たちの信じる神様の恩恵、GRACEです。Graceは、数とか、ポイントとか、私たちがする善行いによって受け取るものではありません。神様が私たちに一方通行で下さる掛け替えのないギフト、賜物です。しかしある人はこの神様からのGrace
と言うものが心の中に入らないのです。受け取れないのです。

畑に言って働きなさいと言われ、朝早くから働いた人たちが、お昼から働いた人たち、そしてたった短い間働いた人たちと同じ賃金をもらったことが面白くない。神様の恩恵、Graceは、この人たちの心の中で、片隅にも見つからないのです。

今日の旧約聖書の話はヨナという宣教師の話です。あの大きな魚、鯨に飲み込まれた人の話と皆さんは思い出すでしょう。ヨナは神様に呼ばれて外国に行き、そこで神様について語りなさいと言われ、いやいやながら異国の地で神様のことを語ったのです。異国人がイスラエルの神様を受け入れなかったならそれでもいい、ユダヤ人だけが救われるはずだから。ところが外国人、異邦人が、イスラエルの神様の教え、救い、神様の恩恵まで受けとった。Acceptしたのです。これは面白くない。彼は、ユダヤ人の神様を外国人が受け入れることに神様に抗議し、怒りのあまりに死にたい位ですとまで口に出して神様との会話をしたのです。救いは私と私の民族だけのもの。これがヨナの考え方でしたが、それに対しての神様の答えは、私は世のすべてのものが私を信じ、救いを受けることです。大切なことは人間である一人ひとりと神様からいただいた愛の精神で付き合うこと、一緒に生きることができるように勤めることです。

私たちの中でもイエス様に従う信仰を守ってきた先輩はたくさんいらっしゃいます。それと反対にキリスト教徒はと勉強を今始めた方もいます。信仰の長い、短いによって神様の私たちに対しての愛は変わりません。私たちはみな平等に、それは全てのキリストに従うものに同じように与えられていることを覚えてください。アーメン。

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