September 25th, 2011

2011年9月25日聖霊降臨後第15主日召天者記念礼拝説教「与えられた永遠の命を信じる者」”Joy of Believing Eternal Life”岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

        「与えられた永遠の命を信じる者」”Joy of Believing Eternal Life”

私たちの父なる主イエス・キリストから恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。

これまでに、多くの方からキリスト教の信仰の原点あるいは出発点はどこでしょうか、と聞かれた事が何回もあります。私の、そして全てのクリスチャンにとって信仰の原点、出発点とはイエス・キリストが十字架にかかって死んだ後、父なる神によって復活なさったと言う事実にあります。コリントの信徒への手紙(一)1517節にこのように書かれています。「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」

イエス様の十字架の死は弟子たちに大きな衝撃を与えました。その時、彼らはイエス様に失望してしまったのです。弟子たちは、このイエス様こそイスラエルをローマ帝国から開放してくださる方に違いない、そう信じてイエス様に望みをかけていたのです。ところが、三日後の日曜日、死んだはずのイエス様が弟子たちの前に現れたのです。弟子たちは、その人物がイエス様だ、とすぐには解りませんでした。しかしいろいろな場面でイエス様と出会うことによって、自分たちと共にいる方はイエス様だと解り、復活の事実が成就された事を知るのです。

復活されたイエス様を信じることができるようになったのは、ただ単に自分たちが一生懸命信じたから出来るようになったのではありません。信じられるようになったのは、神様のギフトである信仰が、弟子たちの心に聖霊の働きによって入って行ったからです。

世界の歴史を見ますと、「イエス様こそ神様です」と信じる信仰は2千年も続いているのです。例えば、私達が生まれ、成長して自分達の子供が生まれるまでの年数を25年します。すると百年で4 generation(世代), 1千年で、40 generation, 2千年で80 generation となります。今世界の中で、イエス様に従う信仰を持った者は世界の人口の3分の1です。世界のあらゆる国の中で迫害を受けてもクリスチャンは生きているのです。

旧約聖書に詩篇と言う本があります。多くの詩篇の中に書かれていることは神様との対話です。詩篇139章に、私達人間が神様、創造者に向けて語っている言葉がこのように書かれています。「あなたは、私の内臓を造り、母の胎内に私を組み立ててくださった。私はあなたに感謝をささげる。私は恐ろしい力によって驚くものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか私の魂はよく知っている。秘められたところで私は造られ,深い地の底で織りなおされた。あなたには、私の骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。私の日々はあなたの書にすべて記されている、まだその一日も造られないうちから。」

詩篇の言葉は難しいのですが、ここで言われていることは、私たちは神様の計画の中で生まれて来た、人生は偶然に始まるものではないと言うことです。私たちは神様によって造られ、他者とまた神様との関係の中で人生を有意義に過ごす機会を与えられているのです。私達の人生には目的と意義がある事を神様は教えてくださっているのです。

今日の召天者礼拝は、神様のご計画により、私達がこの世で時を共に過ごす事ができた私達の家族、そして友人の一人一人を偲ぶ時です。そして、この方たちが私達の人生に関わったことを覚え、それによって、私達の人生が豊かになった事に感謝をする時です。よく言われているように、人生は長いようで本当は短いものです。ついちょっと前まで赤ちゃんだと思っていた子供が、瞬く間にもう小学生、中学生、高校生、大学生、そして社会人へと成長して行きます。親にしてみれば、なんと時間が経つのは早いものか、の一言に尽きます。そして私たちも私たちの両親が歩んだのと同じような人生を繰り返し歩んで行くのです。

私ももうすぐ還暦を迎えます。昔と違って60歳と言ってもおじいちゃんと呼ばれるまではまだ時間があるでしょうが、物忘れはするようになったし、記憶力は確かに昔ほどありません。しかしそれだからと言って20年前の私に戻りたいとは思いません。その時はその時で苦労があった。しかしそれを乗り越える力も確かにありました。私たちは人生を再び繰り返すことができません。一度しかない私たちの人生です。その人生の中で神様は私たちに与えられた今の時を大切にしなさいと言われているのです。その一つが今の私たちを見守ってくれた人々へ感謝を捧げる事です。

私たちを愛し、愛された人たちを思い出し、その人たちに感謝をするこの召天者記念礼拝を持つことは大切なことなのです。私の父は昨年6月に、二年間に亘る病院生活から神様の御許に帰りました。そして家内の父もこの6月に神様の御許に召されました。悲しみは今でも続きます。先立ってこの世を去った人生の伴侶、お母さん、お父さん、おじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん、友達、その方々は今でも私たちの心の中で生きているのです。私たちはその素晴らしい者たちに囲まれて人生を過ごすことができた、そのことを神様に感謝しましょう。

今日私が選んだ福音書はヤイロという会堂司の娘の死と復活についての話です。イエス様は、私を含めて、皆さんの人生を今のこの時まで愛を持って導いてくださっているのです。これをRock climber、登山家 の体験から話して見たいと思います。一人で山の岩場を登る人もいますが、多くの登山家は何人か一緒にグループで山を登ります。そのグループの仲間達はお互いに信頼しながら山を登るのです。グループの一人が山の峰の頂上までもう少しだ、と言う岩場で、つかんでいる岩に全身の力を注ぎ、体を上に持ちあげようとした、その時です。摑まっていた岩が、欠けたのです。この登山家は急激に落下して行きました。この登山家は、私の命もこれまでだ、と思ったかもも知れない。自分の家族の顔が目の前に現れたかもしれない。何もできない状況で目を瞑って祈りの言葉を捜していたその時、この登山家は自分がロープで宙ぶらりんになっていることに気がついたのです。地上から何キロもある空中に、仲間の二人が岩場にしっかり打ち込んであった釘とそこにしっかり結んであったロープのお陰で、この男は命拾いをしたのです。

Grand Canyon のふちに立ち下を眺めた時、私は寒気がして足がすくみました。底に飲み込まれそうな気持ちにかられたからです。これは人生の不安と同じではないでしょうか?私たちの人生は迷子になった、空っぽになった、また不安に取りつかれたような気持ちで悲しくなることがよくあります。しかしそこで思い出して欲しいことは、イエス様は岩、私たちの信頼できる岩、その岩は私たちを見放すことを決してしないということです。イエス様は私たちが信頼することのできる方です。それを信じて今日の福音書の話を聞いてください。

ヤイロというユダヤ人の会堂の責任者に12歳の娘がいました。この娘が病気になりました。ヤイロと彼の奥さんは一生懸命看病したのですが病気は悪くなるばかりでお医者さんもこの娘を元気にすることができませんでした。このままでは娘は死んでしまうかも知れないという苦しい思いの中で、ヤイロは奇跡を起こすことができるイエス様のことを知りました。イエス様は病気の人を癒す、耳の聞こえない者を聞こえるようにできる、足を引きずってやっと歩いている者を自由に歩けるようにしてくれる、目の見えない者を目が見える者にしてくれる。ヤイロは、イエス様ならきっと彼の娘の病気を治してくださるに違いない、と信じたのです。そのイエス様が今彼の町に来ているということを聞いて一目散にイエス様のところに走って行ったのです。イエス様を見つけた彼はイエス様の足元に跪き、心の底から泣いてイエス様に娘の癒しを求めたのです。「どうか私の家に来てください、私の娘が死にかけているのです」と。もし私の娘が死にかけていたならば、イエス様に同じように頼んだでしょう。皆さんも同じことをイエス様に言ったはずです。私たちにとって子供はかけがえのない宝物だからです。

ヤイロがイエス様と彼の家まで急いで走っていったのです。その途中、会堂司の家の者が来て、「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と言ったのです。ヤイロの目の前は真っ暗になりました。「ああ、遅すぎたか、せっかくイエス様をお連れしたのに。」ヤイロの家に着いたとき、イエス様は続けて言いました。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」イエス様は娘の手を取り「タリサクミ」「娘よ、起きなさい。」と言いました。すると娘は、その霊が戻ってきて、すぐに起き上がりました。娘の両親は非常に驚いたのです。

イエス様は神様の息子です。彼にできないことはありません。イエス様は私たちにも、永遠の命の希望を与えてくださっているのです。なぜなら、イエス様は、死の中から甦り、もう死ぬことがないからです。

今日、私たちがここに覚える天に召された家族や友人のお一人お一人は今神様の許にいます。神様と共に私たちを見守ってくれているのです。主イエス・キリストによって、そのお一人お一人と何時の日にか再会できる事が、私たちに約束されているのです。これこそ召天者礼拝の中で受ける私たちの心の平和と安らぎなのです。アーメン。

 

 

 

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