マタイによる福音書22章1-14節
「招待と期待」“Invitation and Expectation”
私たちの父なる神と主イエス・キリスト、恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。
結婚してまだ時の浅いカップルの会話を紹介しましょう。彼らは週末に友達の7時に始まるParty に呼ばれていました。暫くしていなかった芝刈り、落ち葉の掃除をその前に済まそうとご主人は一生懸命働いていたのですが、急に奥さんの、「あなた、もうParty に出かける時間よ。準備できてるの? 」との声を聞いたのです。「あれもうそんな時間になっていたのかとご主人、急いで残りの仕事を済ませ、シャワーに飛び込んだのです。ひげをそり、髪をとかして、カジュアルな服を着て奥さんの前に出てきたのですが、奥さんの最初の言葉は、「あなた、フットボールの試合を見に行くじゃないの。招待状によるとHollywood の有名人が来るのよ。 少なくともネクタイとジャケットを着てください」。
今日の福音書はイエス様が私たちに、どんな服装が必要か、何を着たならいいのか、また着てはいけないものについて語っているのです。ある意味でこれはイエス様のたとえの中では厳しいものです。Happy End もありません。しかしその中で、大切なことを語っているのです。私たちの中で、王様の息子、王子様の婚宴のお祝いのParty に行った人はいないでしょう。しかし、一般庶民でも、王子様の結婚式がいかに大切なものか、また王様はその準備の為に沢山のお金をかけたことは想像できます。王様の跡継ぎの王子様の結婚式はこの夏のPrince William とKate Middleton の結婚式の様だったと思います。誕生日もお祝い事ですが、結婚式とそのあとの宴会ほどすばらしいものはありません。イエス様が、神の国を宴会の食事の時と比較するのは意味のあることです。神様の国に属すると言うことは、神様の催す宴会に参加することができると考えてもいいのではないでしょうか?
イエス様の時代には結婚式に招ばれると言うことは二回にわたるinvitation で始まります。最初に招待状が送られます。それに返答しなければなりません。そして二回目の手紙の内容は、remainder,このおめでたい結婚式を忘れないようにとの忠告です。このお祝いは素晴らしいものですから、是非出てください、一緒にこの素晴らしい時を祝ってくださいとのinvitation
です。
さて王様は召使を送ってすべての人を結婚式の宴会に招待したのですが、招待されていた人達は理由をつけていかなかったのです。またほかの人達は、王様の召使を捕まえて、侮辱を加えた上、殺してしまったのです。もしあなたが王様であったなら、この事件にどう対処しますか? 王様は怒って、軍隊を送ってそれらの人殺しを滅ぼし、その町を焼き払ったのです。そして、もう一度、彼のメッセンジャーを送ってこの結婚式のパーティーに来てくださいを呼びかけました。それから「婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった。だから、町の大通りに出て行って、出会った人は誰でも宴会に連れて来なさい」と命じたのです。
王様の僕は道に出て行って出会う人は、悪人でも善人でもみな集めたので、婚宴の席はいっぱいになりました。王様がこのパーティーに入ってきて、出席者の中に礼服、つまりそのパーティーにふさわしい服を着ていないものを見て、怒り、「何で、あなたは礼服を着ないで、ここに出てきたのか」と尋ねたのです.黙ったままのこの男は王様の命令で縛り上げられ、外の暗闇にほうり出されたと書いてあります。最後に14節で「招かれるものは多いが、選ばれる人は少ない。」と書いてあるのです。この福音書の話は先週に続き、イエス様のたとえ話です。
このイエス様の話のポイントは何かといえば、たとえ話の中にあったように、神様は私たちを神様の元に招待されているということです。しかし招待されている私たちはいつも、必ずしも神様に従って生活していないのです。そこで後ろめたさを感じます。しかし、もし皆さんが芸能界のタレントのパーティーに呼ばれたとする。それが美空ひばりとか、加山雄三のパーティーだとしたら、行かない人はいないでしょう。もっとも、美空ひばり、加山雄三って誰と若い日本人に言われてしまうかもしれない。プロマイドにサインをしてもらって、握手をしただけで一生それが思い出の宝となるのですから、タキシード、またはセクシーなイブニングドレスを着て、そのパーティーに飛んでいくはずです。
しかし神様のParty とは、いつも宴会のような者ではありません。神様はいろいろな人を集め、そこで人と、人の出会いの私たちは神様のパーティーに呼ばれて、それは教会の礼拝、愛餐のときでもあります。そこで第一に、ほかの人と共に神様の素晴らしさを賛美するのです。第二に、私達は自分自身の人生、生活の中でのPriority、何が一番大切なことかを真剣に考えなければならないのです。それが何かといえば、私たちの生活の中で、神様に喜ばれる人生を送ることができるように勤めることです。私たちの生活の態度、人との付き合いの仲で、私たちが小さなイエス様になることです。
イエス様はどのような方でしか? という質問を良く受けますが、その答えは、すべての人を愛した方です。愛されたのはイエス様の弟子だけではありません。世間から嫌われている人、病気の人、生活に困っている人、悩みを持ている人、自分の将来は一体どのようになるのだろうと不安を感じている、すべての人のためにこの世にこられたのです。神様は私たちすべての者にこの神様の宴会にこられるよう私たちを招待しているのです。そこに私たちが来ることを期待しているのです。この招待はすべての人に無償で与えられているのです。そして、神様はこの素晴らしい宴会を無駄にすることはしません。すべての人が、それが良い人でも、悪い人でも、すべての人に与えられているのです。すべての人々は神の愛の対象だからです。この神様の宴会に招待されているということは二つの大切なことを意味します。その一つは沢山の人たちとお祝いの時を共有すること、そしてもう一つは私たちの生活の中で何が一番大切なことかを確認することです。それは、神様の無償の恩恵、慈悲です。神様が、私たちの無償で、神様の愛を下さる、下さっている、これからもずっと下さるのです。しかし「いやそんなことはない。神様だって悪いことをした人を無条件で愛せるのですか」と、その質問は、イエス様を救い主として受けとった人、また、まだ神様を救い主として受け取った人からも聞かれたことが何回もありました。
私たちは善行,よき行いをしたことで神様からポイントをいただくのではありません。このポイントが沢山たまって、この世を去るとき、天国に行く引き換え点となるわけではありません。
このところをRobert Caponさんという牧師さんの講演会で聴いた話を紹介しましょう。ケーポン牧師によると、私たちはUsed car , ポケットに$265ドルの現金を持って夢の中古車を探している者だというのです。探しても探しても、そんな夢の中古車は見つかりません。私から言えば、そんなところに、たった 265ドルの車なんてあるはずがないのですが。この男、駄目だ、そんなもの見つからないかとしょんぼりして家に帰ろうとしていたところにセールスマンがニコニコしながらやって来て、奥のガラージにもう一つ、君の見てない車がある、見てみるかい。これがその車の鍵だ。どうもうちの社長は君が気に入ったらし、社長はそれをただで上げるといってる。あんた幸福だね。ガラージに行ってみるとそこには車が一台だけ、それも新品のポルシェ、スポーツ・カーです。何でこれがただなんておかしいよ。何かこの車にジンクスでもあるんじゃないだろうか? 本当だとしても、新品のポルシェにかかる保険が払えるだろうか?あまり馬力が多すぎて、私には手におえないんじゃないだろうか? でもここの社長さん、なんで私にこの車をただでくれるというのか。何かたくらみでもあるのかなあー。この男の心がまだ動揺して、どうしようと惑っているその間、社長さんは根気強くその男を遠くから観察していたのです。神様はこの社長と同じです。遠くから私たちをみっめて、「私があげるギフトは無償ですよ。頭金の払いもいらない、利子もない、月ずきの払いもない。No string attachですよ」と。
神様の国はそのようなものと聖書は語るのです。私が良いことをすることによってではない、私たちの救いは、神様から一方通行の愛によって無償で与えられているのです。私たちに神様が願われていることは、素直に神様の愛を「ありがとう、神様」と言って受け取ることです。神様の国は天国とも呼ばれますが、それは死んだ方の行く所だけではありません。神様の国は私たちのただ中、真ん中にあります。
ルカによる福音書17章20節から21節にはこう書いてあります。「神の国はいつ来るのかとパリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなた方の間にあるのだ」。
聖書の中で一番、大切な時は何時かという質問が何回も出てきます。皆さんはその答えを知っているはずです。一番大切な時は過去ではなく、未来でもない。一番大切なときは今なのです。Right Now! Right Here! です。
今なすべきことをしなければならないのです。その中で一番大切なことは神様を愛するように、お互いを愛し合いなさい、お互いを助け合いなさい、お互いを大切なものとしなさいと言う言葉です。
James Whistler と言う画家、アーテイストが彼の才能を認められて多くの人たちが彼の絵を求めるようになりました。あるお金持ちの人は彼の絵を買いたい。しかし一つだけ条件がある。それは、Jamesがこのお金持ちの人の家に来て、それをどこに飾ったらいいか教えてくれということでした。James はお金持ちのマンションで、「ここはどうか」「あそこはどうか」と一つ一つの部屋で絵を掲げた男に言いました。「あなたが本当にこの絵を一番いいところに飾りたい気持ちはわかります。でも一番良い所に飾りたいなら、すべての部屋の家具、壁にかかっているものを取り除けなさい。そうしたら、あなたが一番いいと思ったところがわかります。一番大切なあなたが宝物と思っているものは、それが家の中で一番大切なところに掲げられるのは当然です。
同じように、私たちの多くは神様を、家の中のたとえで、家具と家具の隙間に入れようとします。しかし神様は私たちに、私をあなたの家の中で一番大切な所に置いてくださいと言っているのです。神様が私たちにとって一番大切な方であるなら、わたしたちの心に中に住んでもらえるようお願いしましょう。
イエス様は言いました、「私は命のパンである。私に来る者は決して飢える事がなく、私を信じる者は乾く事がない」。どうか神様の聖餐を受ける時、そこに本当に神様がいるんだということを心の中で嚙み締めてください。主は何時もあなたとともに歩んでくださっているのです。 アーメン。