「福音の復興」 “Restoration of the Gospel”
ローマの信徒への手紙 3章19-28節
私たちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン。
一昔、それも20年ぐらい前のこと、何か知りたいものがあったとたら、それを皆さんはどこで見つけましたか? それはたぶん百科辞典だったと思います。ブルタニカという百科辞典は宿題の手助けに欠かせないものでした。それが今ではComputerで何でもすぐ見つかります。
そこで、「世界の歴史の中で、誰が一番貢献した人」とcomputer で捜索してみると、マルチン・ルターの名前が出てきます。皆さんの中にはマルチン・ルターと聞いて、あの黒人の人民の平等を唱え、ノーベル平和賞を受けた人と思いがちですが、このルターさんは15世紀にドイツで宗教改革を起こしたカトリックの司祭であり、聖書学の教授でした。ルターはカトリック教会のなかで、堕落していた教会の姿を悲しみ、また神学的にも、良いおこないをすることにより神様から愛されるというより、神様から愛されるべきでない罪人の私たちが、私たちの罪をイエス様自身が十字架にかかり、そこで私たちに永遠の命を与えるために自分が、人類に代わって罪を贖ったという信仰です。一般に世界の宗教は、一人ひとりがよき行いをすることで神様から愛される、救われると言いますが、キリスト教でいう救いは私たち一人ひとりが自分の努力で出来るものではありません。キリスト教の教えの中に、善行による救いという考え方はありません。神様、それはイエス様が、私たちに代わって私たちの罪を背負い、私たちの代わりに十字架に架かって死んでくださったのです。そのイエス様を信じることのみにより私たちは神様からの救いをギフトとして受け取ることができるのです。
今日私たちが聞いたローマ人への手紙3章19-28節は、ルターがカトリックの司祭のとき何回も何回も読んで疑問に思っていた聖書の箇所です。私たちが義とされるのは律法の行いによるのではなく、神様を信じる信仰によってのみです。実は、神様自身が、私たちの心の中に信仰を植えつけてくださったのです。神様に忠実に従う信仰も神様からいただいたギフト、賜物なのです。
さて、岸野先生は何か難しいことを言っていると思われている方がここにいると思います。そこでもう一度神様の愛を母親の赤ちゃんに対する愛と比較して考えて見ましょう。赤ちゃんは生まれてきた時、お母さんなしでは生きていけません。おなかがすいた赤ちゃんは、ギャーギャー泣き出してママ、おなかすいた、おっぱいのましてと泣くんです。お母さん、私今疲れているから、泣かしっぱなしで赤ちゃんをほ放打って置きおきたいと思うかもしれない。でも私なしに赤ちゃんは育てられない。私なしに赤ちゃんは泣き止まない。私なしに赤ちゃんは何の心配事なく、ぐっすり眠ることもできない。まったく、赤ちゃんという子供を良く考えてみると、その自分の子に与える母親の愛情は天の父なる神様がわたしたち一人ひとりに示してくださった愛情と同じではないでしょうか。ここでお母さんはイエス様であり、赤ん坊は私たち一人ひとりです。お母さんの腕中にしっかり抱きしめられて、私たちは不安もなく、幸福な時を過ごせるのです。そこで愛が感じられるからです。
聖書の中にいろいろな人たちが登場します。イエス様の12弟子、名前が出てこない、病気の者たち、歩くことができない、目の見えない、しゃべることができない,これらの人達はほかの誰かから親の罪の祟りで、こんな惨めな生活をしているものと言われていたかもしれない。我儘な赤ちゃんも、体の不自由な者も、律法学者といわれていたお偉方も、あなたも、私も、神様から見れば、同じ罪人です。駄々をこねる、言い訳の多い人間です。すべての人類はそれ故に、神様の救いが必要なのです。神様がその一人子であるイエス・キリストを私たちの中に送り込み、罪人である私たちを十字架にかかって死んでくださった、その愛により私たちのすべては贖われたのです。救われたのです。
皆さんがお馴染みの放蕩息子を思い出してください。お父さんの半分の財産を抱えて、遠くの地に行き、そこですべての財産を無駄使いしてしまったこの息子、どうしたことか、急にお父さんの元に帰りたくなった。お父さんのところへ帰ろう。しかしこの息子、お父さんがどのように彼を受け取ってくれるかわからなかった。ドアをたたいて、「私です。あなたに背いた私です、あなたから愛される資格もない私です。私がお父さんの家に入ることは赦されないと言われてもわかります。ただ私は、お父さんに自分の罪を告白したいのです。しかし彼がお父さんの家からまだ遠くに歩いてきたとき、お父さんはそこで彼を待っていたのです。毎日待っていたのでしょう。いつか息子が帰ってきてくれこことを信じて、その日を待ちどうしく首を長くして待っていたのです。毎日毎日彼の息子が帰って来るではないかと首を長くして待ち続けたのです。そしてある日、お父さん、まだ遠くの方にいた息子を見出した時、「ああ、私の息子だ、私の息子だ、帰ってきてくれたんだ。こんなに嬉しいことはないと泣きながら息子のの息子だ、私の息子だ、帰ってきてくれたんだ。こんなに嬉しいことはないと泣きながら息子のところまで走っていって、彼を抱きしめて言葉に出ない喜びを感じたはずです。もし皆さんが、このお父さんの立場にあったならきっと同じことをしたに違いありません。
旧約聖書の時代、ある人が神様と悪い関係を持ったとき、彼は生贄のささげ物を持って神様の元に来ることを命じられていました。その生贄により人は神様との元の関係に戻れたのですが、イエス様は、生贄とか、ささげ物を受け取りません。私たちの努力、力、行いによって神様から愛され、愛する関係に戻ることはできません。しかし唯一つの方法、それはイエス様が私たちの罪をしょって十字架にかかり死んで下さったことにより私たちの罪を取り除けて下さったことによるのみです。何か同じことを何回も何回もいっているような感じがしますが、はっきり言って十字架のイエス様以外に私たちを救ってくださった唯一の救い主はいません。それを信じる信仰も神様から私たちはギフトとして受け取っているのです。マルチン・ルターの伝統を持つ私たちの教会は、1517年10月31日にルター自身がイエス様の私たちを救う正しい信仰をすべたの人に宣べ伝えたことを覚える日です。しかし、ここでも主人公はマルチン・ルターでありません。私たちの信仰の主人公は、父と子と聖霊の3つの姿で現れる神様です。
今日の説教は難しいと思われた方もいるでしょう。牧師としての私の役目は第一にイエス様の愛を皆さんにわかっていただくよう勤めることです。どうか質問でも、お祈りでも、悩み事があるときには私に電話をください。誰かがイエス様のことを知りたい、そういう人がいますなら、私にその人を紹介してください。私の役目は皆さんが少しでも神様の愛を感じることができるようになる、その為に神様は私を牧師という働きに導いてくださったのです。一人でも多くの方が、神様の福音を聞き、心を開いて、イエス様を受け入れることができますよう私たちは共に祈るのです。アーメン。