December 7th, 2011

2011年12月4日待降節第2主日聖餐礼拝説教「イエス様と洗礼者ヨハネの関係」”Relationship between Jesus and John the Baptist”岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

マルコによる福音書1章1-8節

「イエス様と洗礼者ヨハネとの関係」 “Relationship between Jesus and John the Baptist”

父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン。

皆さんのうちに、イエス様が子供のころどんな生活をしていたか考えたことがありましたか? イエス様の誕生の記事はマタイとルカに福音書の中に出てきますが、ルカによる福音書2章の中で、イエス様が12歳のとき、エルサレムからガリラヤに帰る途中、両親と別れて、宮の中で、教師たちの真ん中に座って彼らの話を聞いたり質問したりしていたと言う記事が書かれています。その次にイエス様のことを書いているのは恐らくイエス様が、30歳ごろになった時、洗礼を受けるためにヨルダン川で洗礼を洗礼者ヨハネから受けるときです。

イエス様自身が人間であり、神様であるのですから、大工のヨセフを「お父さん」と呼んだに違いありません。ヨセフと一緒に、大工さんの仕事もしたでしょう。兄弟、姉妹もいたのです。そのことはマタイの福音書の14章55-56節に書いてあります。それを読んでみましょう。「この人は(イエスは)大工の子ではないか? 母は、マリアと言い、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。またその姉妹たちもみな、私たちと一緒にいるではないか」。今回このことをはじめて聞いた人もいるでしょう。しかし、マリアとヨセフが何人かの子供たちをイエス様の他に持っていたのもおかしくない事実ではないでしょうか。それにしても男の兄弟の名前が聖書に出ているのにイエス様の姉妹の名の出ていないのは残念です。それに何人の姉妹、その人たちの名前もわたしたちは知ることができたらと思うんですが。

ところで、皆さんの中で洗礼者ヨハネとイエス様が従兄弟と言うより、はとこの関係であることをご存知ですか? と言うのは、マリアさんには親戚の女性、それもマリアさんよりずっと年上のエリザベトという人がいました。エリザベトは年をとった、不妊の女でしたが、神様は彼女の願いをかなえてくださりその妊娠6ヶ月にマリア様はいとこのエリザベトを尋ねにいったのです。この二人が神様の計画、それも自分たちの子供が、神様の計画された素晴らしいことを果たすものになると知り、心が動揺したと共に、神様に恵みとして与えられたこれから生まれてくる赤ちゃんを想像して神様に感謝したはずです。

聖書には書いてありませんが、洗礼者ヨハネとイエス様は年がたった3ヶ月違うだけです。もしかしたら、この二人、親戚付き合いの中でヨハネとイエス様は心が深くつながれていたでしょう。ヨハネは自分が神様に使われるものとわきまえていました。その大切な行いは洗礼を求めてやってきたイエス様にも、それを授けたことです。

私も牧師として多くの人に洗礼を授けました。生まれたばかりの赤ちゃんから85歳の18人の孫を持つおばあちゃん、その洗礼の式の中であなたは神様の子供ですよと宣言したとき、喜びで涙が止まらない人達はそこで神様に心の中で触れることができたのです。

私たちのルーテル教会では毎年同じ福音書の日課を与えられています。皆さんに知って欲しいことは、カトリック教会、メソジスト教会、長老派、毎週同じ聖書の日課を与えていただいているのです。これはもう20年ほど前から行われている共通点です。教会自体が、もっとお互いの共通点を認め合うようになったからです。

ところでクリスマスも近づき一番皆さんが関心を持っているのは、馬小屋で生まれたイエス様とそれにまつわる話です。皆さんが想像している馬小屋の飼い葉おけに眠っているイエス様の話は4つの福音書でマタイとルカだけに出てきます。マルコによる福音書にはクリスマスの記事がありません。マタイによる福音書だけには遠い国からイエス様に捧げるギフトを持ってきた3人の博士の話がありますが、神様の救い主が生まれたと天使が羊飼いに語っている記事を書いたのはルカによる福音書だけです。ヨハネによる福音書にはクリスマスの話はありませんが、「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉に命があった。すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」と言う形でイエス様の到来を述べているのです」。

今日の福音書はマタイによる「救い主の出現」の記事です。それも洗礼者ヨハネによる罪から逃れるために受けるべき洗礼の薦めです。私たち人間はどんなに清い生活をしようと思ってもそれを守ることができないのです。なぜなら私たちは罪人だからです。私たちの罪は自分の行ないによって取り消すことができないからです。洗礼を受けるのは、神様によって私たちの罪を赦していただくことです。人生で一回の洗礼ですべての罪がなくなるとは魔法のようですねと誰かから言われたことがありました。しかし洗礼は魔法ではありません。私たちの罪はいつも続きます。しかし洗礼によって神様、イエス様にあなたは「私の子供」とのしるしをいただくのです。そのしるしは私たち一人ひとりの心の中に刻まれたイエス様の宣言です。その宣言とは「あなたは私にとって掛け替えのない大切な命です。私は今から先ずっとあなたを見捨てません」と言う神様の約束なのです。

私は神様から愛されているとの確信があります。しかし私は自分が罪人である、時には、何か神様から喜ばない行動をしている、また私の口から出る言葉によって誰かが傷つけられる、そんな人生を繰り返しているのです。ですからこそイエス様に祈るのです。「私はあなたのように人との付き合いの中であなたの愛を示すことができる人間になりたいのですが、それがいつもできないのです。お許しください。あなたの力と愛の精神を私に与えてください」。このような私たちを愛してくださる神様、イエス様に感謝します。イエス様なしに私たちは人生を一日も過ごすことはできません。

私たちの周りには、また親戚、友達の中に神様と言う方をあまり意識して生活をしている人たちが沢山いらっしゃるでしょう。宗教は毎日の生活にはあまり関係のないこと、それが必要なのは、冠婚葬祭のときだけ、自分がしっかりしているなら、誰になにを頼むこともないと思っている人たちがアメリカ人の中にもたくさんいます。しかしわたしたちが宗教を必要と思うその裏には宗教はただ自分のことばかりでなく、私たちの隣人とどのようにかかわってゆくかと言う課題に大きな影響を与えてくれるのです。自分を愛するように他人を愛することがキリストに従う私たちには求められているのです。

どうかこのアドベントのシーズン、バプテスマのヨハネが呼びかけているように私たちの生き方を省み、神様に喜ばれる人生を送ることができるように祈ります。アーメン。

 

 

 

 

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