ルカによる福音書2章21-40節
「名前は人を表す」 “What’s in the name”
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン。
まず最初に、平成24年の元旦を迎えておめでとうございます。西暦では2012年ですね。昨年は東日本で起こった地震、津波、原子力発電所の事故、世界のあらゆる国で問題になっている経済問題、アラブ・スプリング、そしてアメリカでは今年の末に、オバマ大統領がまたもう一期、大統領に再選されるか、あるいは新しい大統領が選ばれるかの大きなニュースが続くでしょう。又、メキシコのマヤ文明によって何千年も前に作られたマヤ・カレンダーによると今年の10月に、世界を襲う災害が起こると言われています。しかしながら考えてみると、そのようなことは毎年のように言われてきたのではないでしょうか?
今年はどんな年になるでしょうか? 大切なことは私たちの生活の中で一日、一日、神様に与えられた人生を感謝して、お互いを助け合って生きることです。
今日与えられた新約聖書の日課は主に、シメオンとアンナという年取ったいわば預言者と呼ばれる人たちと赤ちゃんであるイエス様が両親に連れられて神殿に宮参りに来た時の記事です。しかし、この記事の初めにある21節に「8日が過ぎ、割礼を施す時となったので、受胎の前に御使いが告げたとおり、幼子をイエスと名づけた」。と言うただ1節だけの言葉があります。生まれた赤ちゃんに名前をつけることは、その人の人生の始めにあたって、とても大切なことです。与えられた名前は一生私たちに与えられたギフトであり、その名前が私たちの人生の道を整えるとも言われています。私ごとですが、私の両親は私の生まれる前すでに男の子なら『豊』と言う名前にすると決めていたと聞きました。それには理由があります。私の従姉妹(いとこ)、母の姉は私の生まれる6ヶ月前に娘を産んで「めぐみ」と名づけました。私の両親は、この二つの名をくっつけて『恵み豊かに』と言う聖書の中に良く出てくる言葉を考えていたのです。
名前は人を表すといわれています。そして、苗字は家柄を表すも言われています。その典型的な小説は皆さんも御存知のシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」です。ロミオの家族は有名なモンテギュウ、ジュリエットの家族はこれまた有名なキュプレットという家族ですが、両家ともお互いを敵のようにみなしていたわけです。小説の内容は皆さんの知っているとおり、ロメオとジュリエットは恋に落ち、結婚を夢見たのですが、敵対心の強い両家がそれを赦すことはないとあきらめ、ひそかに結婚をしました。しかし、その後、自殺と言う悲しい事件を起こしてしまったのです。これは日本で言えば、源氏と平家の争いのようなものではないでしょうか。自分を自分の名前から引き離すことはできないのです。このことを英語では “Your name is your Identity”と言います。
さてこの中に覚えている方、どのくらいいるかわかりませんが、1970年代の後半、ちょうどそれは私が、ペンシルベニアの神学校にいた時、多くの人たちがCBラジオにこり始めました。その流行に遅れまいと私もCB ラジオを始め、まず最初に7フィートの高さのアンテナを私の愛車、Ford Pinto に取り付け自分の名をYou-talk-a lot と言うハンドル・ネイムでしばらくやり始めました。しかし知らない人とくだらないことをしゃべるのがいやになってやめました。
私たちの名前は私たちのいろいろなことを表すのは本当です。しかし名前だけではなく、名前と私たちが一緒になって現されるのです。私の息子アンドリュウは私の一番好きなイエス様の弟子で、アンドリュウの名前は、彼の生まれる前から用意しておきました。彼は気立ての優しい子です。自分の意見は述べますが、それでもいつも自分の意見をほかの人の意見を聞かずに通そうということはしません。口数も少ないほうで、誰にもいつも親切です。息子をそのように表現する私は親馬鹿かもしれませんが、自分の息子に教えられることも多いのです。このアンドリュウの性格は本当にイエス様の弟子のアンドリュウの性格に良く似ているのです。
マルチン・ルターは言いました。「人が良いReputation を受けることは人生の一つの大切なBlessing である」と。ユダヤ人の赤ちゃんは生まれて8日目に割礼、Circumcision を受けるのが決まりでした。ユダヤ人にとって、割礼は宗教的に、民族的にも大切な儀式であり、神様から恵みをいただいたことを祝う時でもありました。
このルカによる福音書にはその時、イエスと言う名前が与えられたと書いていますが、イエスと言う名前の意味は、マタイによる福音書の中に、次のように書かれています。「見よおとめが身ごもって男の子を生むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。これは、「神我らと共にいます」と言う意味である。イエス様にはいろいろなタイトルが与えられています。それは、「平和の君」、「救い主」「キリスト」、「神の子羊」、「ダビデ王の枝」、「人の子」、「言葉」、「命のパン」、「ぶどうの枝」、「ドア」、「門」。その 他にもイエス様には沢山のタイトルがあるでしょう。
神様とイエス様は父と子という関係で表されていますが、聖霊も含めてこの3つのタイトルは切り離すことができません。この広い世界、宇宙の中で、父は創造主であり、子はイエス様という人として、聖霊は私たちの心を神様に向ける力として、私たちの心、思いの中にいつもいらっしゃるのです。
これは昔のヨーロッパの習慣ですが、二人の人が契約を結ぶとき、サインだけではなく、お互いが針で指を刺し、そこで出てきた血で印を押すのです。これはイエス様が私たちの罪を赦すにあたって十字架にかかって流された血による私たちへの契約と同じです。イエス様の流された血によって私たちは清められているのです。真心をこめて私たちの罪を告白し、イエス様に罪の赦しを求める時、イエス様は私たちと共にいて、私たちを清めてくださるのです。又、イエス様のみ名によって、私たちへの神様のすべての約束が与えられているのです。それは、永遠の命、救い、赦してあり、神様から与えられた平安と明日と云う日に向かっての希望です。
これは今世界中で心配されている経済の問題、宗教と宗教の衝突、人種差別などですが、私たち人類はお互いを自分たちの兄弟、姉妹として認めない限り本当の世界の平和は与えられないのです。神様は平和をすぐに力でくださると言うより、私たちに知恵と人々への思いやりの精神を確立することによって本当の平和を約束してくださるのです。
皆さんの良く知っている名前に、Albert Schweitzer (アルベルト・シュワイツアー)と言う人がいますが、イエス様のことを書いた短いDevotion を最後に紹介しましょう。
「イエス様は誰からも知られていない人として私たちの中に入ってきたのです。そして出会った人たちに言いました。『私に従ってきなさい』イエス様は私たち一人ひとりに私たちの時にあってしなければならない行いを、あたえられていのです。そのしなければならないことは私たちがイエス様の弟子となり、私たちの隣人に愛を持ってかかわってゆくことです。
その中にイエス様自身が私たちと共にいます。飢饉の中で、戦争の中で、すべての苦しみの中で。悲しみの時、嘆きの時、イエス様の名前を唱えなさい。イエス様の名前を信じなさい、神様のみ名によって救いの時、やすらぎの時、許しの時、そして喜びで涙を流す時も来るのですよ」と。
この新しい年を迎え、イエス様を愛する私たちが、お互いを信頼し、お互いを助け合い、お互いを理解しあい、お互いに素晴らしい人間関係を築いて生きてゆくことができるように祈ります。アーメン。