January 17th, 2012

2012年1月15日顕現節第2主日聖餐礼拝説教「来てご覧なさい」”Come and See”岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

ヨハネによる福音書1章43-51節 「来てご覧なさい」”Come and See”

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が、あなた方にあるように。アーメン

みなさんの中で、死海文書、或は死海写本という名前を聞いたことのある方、いらっしゃいますか? これは1930年の半ばに、発見された旧約聖書の写本です。迷子になった羊を探していた羊飼いが、イスラエルの死海北西のクムランと言う町の洞窟で壺に入っていた、850巻の写本です。この写本が今の私たちの旧約聖書に素晴らしい貢献をしているのです。

同じように偉大なるものは考えられない処から来るのです。今日の福音書にこう書いてあります。「ナザレの土地から、何の良い者が出ようか」。そういったのはナタナエルという男で、イエス様に呼ばれた12弟子の一人です。ナタナエルという弟子の名前はイエス様の12弟子の中で皆さんにあまり知られていません。しかし彼の別名はほかの福音書に出てくるバルトロマイであろうと言われています。

さて質問ですが、何故ナタナエルはナザレの土地から、何の良い者が出ようかといったのでしょうか? これはユダヤ人の歴史の中でナザレと言う土地について旧約聖書の中に一言も書かれていないからです。また、ナザレはイエス様の時代にはローマ帝国の駐屯軍がいたところでユダヤ人はこの外国人の多くいた、特に兵隊のいた場所を嫌っていたからです。預言者の書いたものに中にはメサイアをガリラヤの土地と結びつけた文章もありません。ましてナザレの町から今までに名を知られるようになった人は一人も出てこなかったのです。

そこで、ナタナエルはフィリポの後についていった時、メシヤ、救い主と呼ばれる人と出会うなど思ってもいなかったのです。ですからイエス様に初めて出会い、イエス様から自分のことを「見なさい。ナタナエルはまことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言われてびっくりしたのです。何で私のことをこの人は知っていられるのだろうかと疑問に思ったに違いありません。同じようにイエス様は私たちの口に出さない、ただ心の中で思っていることもすべてご存知なんです。神様から隠れて何かをしようとしてもそれも神様はすべてご存知なのです。そんな神様はいやだよ、ごめんだよと人は言うかもしれない。しかし私たちの心で思っていることさえ知っている神様は私たちを罰するために来たのではないのです。もう一度言います。神様は私たちを罰するために来たのではないのです。では何のため神様は私たちの元に来たのですか?

神様が私たちのところに来てくださったのは、私たちがイエス様を通して教えてくださった神様の愛を知ることです。それは私たちを赦すためです。私たちが実行する訳ではないのですが、心、頭の中で出てくる暗闇の中でするようなこと、暗闇の中で企むこともイエス様はご存知なのです。イエス様について行く私たちは、神様から逃げられないのです。それは神様から罰せられると言うより、神様は私たちを神様の愛によって素直な、心の清い、お互いを尊重する、お互いを大切にする人間として私たちを導いてくださっているのです。本当は愛される者でない私たちを愛する神様がイエス様です。イエス様の愛に触れて本当の愛の心がわかるようになるのです。

ところで、今日の福音の中でナタナエルとイエス様の何か謎のような会話があります。48節に、ナタナエルが、「どうして私を知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「私はあなたがフィリポから話しかけられる前に、イチジクの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「イチジクの木の下にあなたがいるのを見たといったので信じるのか? もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」

ユダヤ人にとってイチジクの木は霊と実りのシンボルです。そして、イエス様が「私はあなたがイチジクの木の下にいるのを見た』といった意味は「あなたは神様の御心を受け入れる方である」と言うことなのです。それは喜びも悲しみも、疑問に思うことも、失敗もすべて神様にお話してください。そうすることにより神様はある形で、私たちに神様の御心を表してくださいます。ナタナエルはイエス様がどんな人か始めはわかりませんでした。しかしそれは今イエス様に関心を持つ、イエス様の教え、私たちへの約束とはどのようにしたら分かるようになるのだろうと考える私たちの姿ではないでしょうか? 私たちの周りには沢山の教え、宗教があります。それぞれが、私の宗教が神様から与えられた一番の教えだと言うのはわかりますが、西洋の宗教と言われているキリスト教は日本人の心を受け継いできた私たちにとって受け入れにくいものではないかと言う質問を多く受けます。

しかし聖書をよく読んでいくとキリスト教は別に西洋の思想の中から出てきたのでないことがわかります。それ以上にキリスト教はヨハネによる福音書の14章6節に書かれているように私は道であり、真理であり、命であると言われた、その言い方に私たち日本の文明を受け継いだものに近親間を持つ言い方ではないでしょうか?

日本の文化にはたくさんの精神的文化の道があります。お花を活ける花道、お茶の道である茶道、文字に心を表す書道、侍の精神の武士道、その一つ一つは精神を統一して、絶対なるものへの探求、そこで究極の悟りを受ける。私は同じようにキリスト教も悟りの道、しかし『神は愛なり』を言葉だけでなく、口先だけでなく、私たちの生き方を他者との中で実行するのだと信じています。それがいつも実行されていないと言う反省を私はしながら、神様の許しをいただいて生きていくのです。

聖書を読んでみると、イエス様の弟子たちも同じような生き方をしていることに気がつきます。 ナタナエルはイエス様に出会ったことにより人生が変わったのです。イエス様のことををほかのの誰かから聞いたからではなく、実際にイエス様から見えないイエス様の愛と聖霊に触れる生活を持つようになることで彼の人生も変わったのだと私は信じます。

今日の福音書のテキストはEvangelism, 福音の伝道のテキストとして良く使われます。Evangelism と言う言葉はギリシャ語のユウバンゲリオンという言葉から来ています。それは英語でGood News であり、よき訪れの言葉、それが福音です。

イエス様を受け入れた、また、福音を私たちの生きる中でのテキストとして人生を暮らせるように私たちは望むのです。キリストに従う生き方をするものは、言葉と行動も変わってくるのです。どうかイエス様の愛が私たちの心の中で生きる力と思いやりとなり、毎日の生活ができるように神様に祈りましょう。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

 

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