January 25th, 2012

2012年1月22日顕現節第3主日聖餐礼拝説教「イエス様に従う」”Following Jesus”岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

マタイによる福音書1章14-20節

「イエス様に従う」 “Following Jesus ”

私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン。

年は1915年、28名の男たちは氷山の上に体をより寄せながら立っていました。逆登って一年前、彼らは南極点に行きたつ目的をもってロンドンを出たのです。しかし今それがかなわないことが分かって、いやそれ以上にこれからどのようにして350マイルはなれた離れた所にあるベース・キャンプに戻り着くかの心配事に心を悩まされていたのです。彼らの船であるEnduranceは、すでに9ヶ月に渡って氷の中に閉じ込められて、そこから抜け出すことも出来なくなっていたのです。そればかりか、氷の力によってEnduranceは押し潰されつつあったのです。

男たちはもう一度Enduranceに戻ってこれからの困難な旅路に必要な物を持ってきたのです。それらは、シャベル、ピッケル、ハンマー、ロープ、テント、ブランケット、そして25フィートの長さの3隻のボートです。彼らの隊長であるErnest Shackelton は、たった一つの抜け道は350マイルにわたる氷と雪の中をPaulet Island と言う海の水が凍っていない所に行き着けなければならないと皆に言い聞かせたのです。そして必要意外なものは一切持って言ってはいけないと命令しました。Shackelton は自分のポケットから一握りの金貨と金張りの懐中時計を取り出し、それを雪の中に投げ捨てたのです。彼に従って皆自分の持っていた物をそこに残したまま何週間もの死にもの狂いで歩き続け、奇跡的にも28人全員の命が救われたのです。

今日の福音書は、イエス様がガリラヤ湖の湖畔で漁師をしていたペテロとアンドレに「私についてきなさい」と声をかけた話です。この二人の兄弟は網もお父さんも残してイエス様について行ったのです。またその後、船と網を洗っていたヤコブとヨハネもイエス様の『私に従ってきなさい』と言う言葉によってイエス様について行くようになったのです。凍えるような寒さの中で自分の持ち物をすべて捨て命を救ってくれると信じた、南極探検隊も、イエス様というリーダーに弟子たちが従ってきたのは、命の救いを約束された方を信頼することができたからではないでしょうか? 全てをうしろに残してリーダーについてきたのです。命への道を見出したのです。人の一生というものはただ飲み食いするだけではなく、人生とは何か。何かを目的に生きてゆくことが必要なのです。命、永遠の命をあなたに与えたい。受け取ってほしいと言う神様の恵みの中で、私たちはその救いを受けるよう、イエス様から一方的に与えられているのです。ですからすべてを後ろに残して命の救いの道を求めるのです。

いま少し前Shackleton の仲間は一人も残らず救われたと言いましたが、実はShackelton の南極探検の75年前1840年にイギリスのSir John Franklin と言う北極探検隊の140人の一行は北極ですべて戻らない人たちとなったのです。それが何故かと言うと、かれらのPriority が間違っていたからです。彼らは蒸気エンジンを持つ二隻の帆船でこの探検を試みたのですが、2年かかるだろうと思われるこのプロジェクトにそれに必要な燃料の石炭の量を船に積まなかったのです。その代わり、その場所を, 1,200冊の本、オルガン、エレガントなtable wearつまり、銀の食器、(それも一人ひとりの名前が刻まれているもの)などに気を配っていたのです。氷の中で立ち往生の後、探検隊の全員は船を捨て、助けを求めたのですが、厳しい寒さの中で全員が凍死してしまったのです。後に見つかった探検隊のポケットには、自分の名が刻まれた銀のフォーク、スプーン、ナイフなどが見つかったのです。自分の命がさらわれると言うその時まで,それらのものを見放すことができなかったのです。

さて一昔前の話ですが、あるキリスト教の求道者の人が私にこう質問しました。”先生、イエス様についてゆくとは私の持っているものをすべて見放さなければならないのですか? そういう風に言われる事もあるでしょう。皆さんが御存知のSound of Music の話はマリアと言う若い女性が修道院に入る条件として、質素な生活、神様への祈りの時を毎朝、毎晩持つこと、そういう生活をできる人もいれば、神様を自分は愛するが、修道士のような生活はできませんと言う人たち、それは私も含めて、が殆どでしょう。

しかし私たちの生活の中で、神様から愛されていることを信じ、それゆえ、お互いを大切にして生きるということは、イエス様に従うキリスト者の生活の中で実行しなければなりません。人生で一番大切なのは、イエス様を人の中に見出すことです。イエス様は私たち一人ひとりの心の中に住んでいるということも知ってください。

今日の福音書によると、イエス様から『私に従ってきなさい』と言われたシモン・ペテロ、アンドレ、ヤコブとヨハネは網を捨てて、また家族をも残してイエス様についていったのです。イエス様に従うとはイエス様が私たちに示してくださった道を歩むことです。イエス様の十字架は私たちの十字架であり、イエス様の御心は私たちの御心となり、イエス様の命も私たちの命となることです。

これは難しすぎてできないと言われるかもしませんが、それを私たちの生活の中で試みるところに主なるイエス様は一緒にいてくださるのです。神様の聖霊に守られて私たちの生活ができるようになるのです。

考えてみてください。私たちの人生は短く、その命もか弱いものです。しかしイエス様は、手を差し伸べて私たちにイエス様についてゆくよう呼んでくださっているのです。私たちが躓いて転びそうな時、私たちを神様の腕の中に受け取ってくださります。私たちの心と体が滅びそうになった時、それに打ち勝つ力を与えてくださいます。そして私たちに平安と希望を私たちの人生の末期に神様の身許に連れて行ってくださる喜びを与えてくださるのです。イエス様の他にこのような力、信仰、希望を与えてくださる方はだれもいません。

イラクでの戦争が始まって以来、アメリカはすでに1trillion dollar  を使ったと聞きました。アメリカの兵隊さんたちはもう帰って来た訳ですが、この戦争の結末がどのように展開されるかは未来の歴史家によって書かれるでしょうが、多くの命が奪われた、父のいない、家族のない孤児たちが沢山、沢山います。

それは日本の65年前の出来事と同じではないでしょうか。今こそ私たちが望むのは未来についての希望です。神様どうか私たちの国、世界、をあなたの愛によって導いてください、お互いを愛する精神を私たちの心の中に植えつけてください。あなたの光をもって私たちの人生の道を照らしてください。私たちの人生があなたの御心にかなうよう、主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。

 

 

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