January 31st, 2012

2012年1月29日顕現節第4主日聖餐礼拝説教「イエス様の権威」”Authority of Jesus”岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

マルコによる福音書1:21-28「イエス様の権威」     “Authority of Jesus”

私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平安が、あなた方の上にあるように。アーメン。

イエス様は生まれがベツレヘムですが、育ったところはナザレと言う田舎です。大人になりガリラヤ地方のヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け、40日間に亘って荒野でサタンの誘惑を受けましたが、それに打ち勝ち、その後ガリラヤで神様の福音を語り始めました。またガリラヤ湖の湖畔で漁師をしていた4人を弟子として福音の伝道の働きにはいったのです。安息日にはカペナウムの町にあるユダヤ人の会堂で、聖書の内容と神様の福音について教え始めたのです。

さて皆さんの中で、イエス様はユダヤ人のラビ、英語で言うRabbi だったのですかと言う質問が来るかもしれません。ラビは聖書をよく勉強した、また会堂で説教もしていたでしょう。イエス様は勿論子供の時から両親に連れられてユダヤ人の会堂に行っていたはずです。しかし、ユダヤ人の会堂で話をするのはラビだけではなく、一般の男たちもそのような討論をすることができたのです。

神の国の伝道を始め、人々はイエス様の教えに権威があることに驚いたと福音書には書いてあります。いつもの会堂司や、ラビの説教と違い、何か心に訴えられるようなイエス様の教え、また汚れた霊に取り付かれた男からその悪霊を取り去ったイエス様の評判が、ガリラヤ地方の隅々まで広まったのです。

1960年代に私は東京で、Billy Grahamのクルセードに行った事があります。それまでこの人の名前を聞いただけで、彼がどのような牧師さんであるかは知りませんでした。話し始める通訳の人の言葉より彼の力ある声と神様の聖霊に満たされたメッセージに心を奪われました。メッセージの後、Billy Grahamは、イエス様を受け入れる心を持つ方は前に出てくるように勧め、私も何か涙を流して前の方に行き、日本語と英語が一冊になっている新約聖書をもらいました。この人は本当に神様の聖霊に満ちていると感激したのです。皆さんのうちにも誰か、権威を感じさせられる人柄に出会い、この人はすごいと思ったことがあるでしょう。

カペナウムに住む人たちはイエス様の権威のある神様からのメッセージを聞いてびっくりしたのではないでしょうか? また悪霊に取り付かれている人たちはイエス様に出会うことを嫌っていたのです。と言うのはイエス様は悪霊を追い出すことができたからです。私がこれは本当だと思ったことは、悪霊自信が神様を恐れているからです。暗闇、暗いところに存在するものは、神様の愛、お互いを大切に助け合う生活、喜びを分かち合う生活などを嫌うのです。

福音書のマルコによるとイエス様はただ単に言葉による権威を持っていただけではなく、 行動による権威をもっていました。それは旧約聖書の創世記の中に出てくる創造主である権威を持った神様の言葉と行動です。

旧約聖書の創世記1章1-3節にこう書いてあります。

初めに,神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の表にあり、神の霊が、水の表を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして光があった。神様が語ることで光があり、また語ることによってそれが実現したのです。また主なる神は土の塵で人を形作り、その鼻に息を吹き入れたのです。これも神様でしかできない権威ある言葉と行動です。

しかし神様の造られた私たち人間の中でも、権威に満ちていたひとたちもいます。私は神学校の4年間のうち3年間をペンシルベニア州のGettysburg という南北戦争の激戦地で過ごしたのです。神学校はまさに激戦地のど真ん中にあります。5万人もの兵隊さんが3日間の戦いで命を失い、その土地は人間の血で赤く染まったのです。

その時の大統領がリンカーンでした。彼は南北戦争の終わったその年の11月にワシントンからGettysburg に戻り彼の演説の内最も有名なGettysburg Address と言うものを祈りをこめて語ったのです。その一部を聞いてください。

Four score and seven years ago our fathers brought forth on this continent, a new nation, conceived in Liberty, and dedicated to the proposition that all men are created equal.

Now we are engaged in a great civil war, testing whether that nation, or any nation so conceived and so dedicated, can long endure. We are met on a great battle-field of that war. We have come to dedicate a portion of that field, as a final resting place for those who here gave their lives that that nation might live. It is altogether fitting and proper that we should do this.

But, in a larger sense, we can not dedicate — we can not consecrate — we can not hallow — this ground. The brave men, living and dead, who struggled here, have consecrated it, far above our poor power to add or detract. The world will little note, nor long remember what we say here, but it can never forget what they did here. It is for us the living, rather, to be dedicated here to the unfinished work which they who fought here have thus far so nobly advanced. It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us — that from these honored dead we take increased devotion to that cause for which they gave the last full measure of devotion — that we here highly resolve that these dead shall not have died in vain — that this nation, under God, shall have a new birth of freedom — and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.

ゲティスバーグ演説・全訳

『南北戦争 49の作戦図で読む詳細戦記』(学研M文庫)訳者のページ

 八十と七年前,私たちの父祖は,この大陸に新たなる国家を打ち立てました.自由を原点として懐胎され,人はみな平等であるとの命題に捧げられた国家です。

今私たちは,たいへんな内戦の渦中にあります.その国家が,あるいはそのような原点をもって懐胎され,そのような命題に捧げられた国家一般が,長らえることができるかどうかが試されているのです.私たちはその戦争の激戦地に集っています.その国家が生き長らえるためにこの地で命をなげうった人々の最後の安息の地として,その戦場の一角を捧げるために集まりました.それは私たちにとって,全くもってふさわしく,また理にかなった行ないであります。

しかし,より大きな意味では,私たちがこの土地を捧げることはできません.この土地を聖別したり,神に捧げたりすることはできません.この地で奮闘した勇敢な人々こそが,生きている方々も戦死した方々も含め,すでにこの地を聖別しているのです.それに付け加えたり,差し引いたりすることは私たちの貧弱な力の及ぶところではないのです.私たちがここで話すことは世界の耳目を引くこともなく,やがて忘れ去られることでしょう.しかし,彼らがこの地でなしたことは,永遠に世界の記憶に留められるのです.この地で戦った人々がこれまで気高くも進めてきた未完の仕事を完遂するために,私たち生きている者は,むしろ自らの身を捧げるべきなのです。

私たちの前には大いなる責務が残されています.名誉ある戦死者たちが最後まで完全に身を捧げた大義のために,私たちも一層の献身をもってあたること.これらの戦死者たちの死を無駄にしないと高らかに決意すること.神の導きのもと,この国に自由の新たなる誕生をもたらすこと.そして,人民の,人民による,人民のための政府をこの地上から絶やさないことこそが,私たちが身を捧げるべき大いなる責務なのです。なんと言う権威のある言葉ではありませんか。

もう一度、今日の福音書の中で汚れた霊に取り付かれた男がイエス様に叫んだ場面に戻ります。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。あなたの正体は分かっている。神の聖者だ。イエスが「黙れ、この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人に痙攣を起こさせ、大声を上げて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。

マルコが「イエス様の評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」 と書いたその理由はイエス様の話し方に権威があったからであり、悪霊をも取り払う権威があったからです。

これは私が何回も経験したことですが、人生の末期、それもあと数日、数時間の命と言われた時、神様を信じる信仰を持った人達は本当に強くなるのです。力が強いのではなく、神様に対しての信仰がさらに強くなり、死によってこの世の命は終わっても、神様と共に生きるという喜びをも確信するのです。

昨夜、私は同じオレンジ郡で日本人に向けて伝道をしている、杉村先生の奥さん、節子さんのお葬式に行ってきました。私は杉村先生も節子さんのことも聞いてはいましたが、会ったこともない、話したこともありませんでした。Memorial serviceの行われた、ウインターバーグ長老教会は400人以上の方でいっぱいでした。この教会からも松井誠史さん、安達牧師夫妻、芙美 Liangさん、深見祥子さん、白井倭文子さん、田中子さん、もしかしてほかのこの教会からの方もいらしていたかもしれません。2時間にわたるmemorial service でしたが、音楽も、皆さんの節子婦人についての思い出、特にこの人は1990年にUCLAの病院で心臓移植、それも日本人として恐らく初めての人でした。30年の結婚生活のうち22年病気、そして腎臓の悪化のため始めた透析も毎日なさっていたと聞きました。

しかし今それらの苦しみもなく、神様の元に帰られた節子さんは神様の身元にいるとそこにいた500人以上の方が、一人ひとり信じてくれたと思います。

キリストに従う者として一番の喜びは、毎日の生活の中で、神様の愛によって生かされていることを知ることです。それは人と人の付き合い、関係の中で、神様の愛をお互いに感謝する時です。その時を神様は私たちに与えてくださっているのです。聖餐式で、イエス様の体と血をを受ける時、イエス様はあなたとあなの隣人の中にいらっしゃるのです。あなたに慰めを与えてくださっています。あなたに毎日の生活の中でイエス様に従って生きてゆく力と精神を与えてくださいます。

私たちは決して独りぼっちになることはないのです。神様はいつも、いつも、あなたと共にいらっしゃるのです。どうか、そのことを信じて神様に愛されている人生をお送りください。アーメン。

 

Back Top

Comments are closed.