May 13th, 2012

2012年5月13日復活後第6主日聖餐礼拝説教「キリストの愛」”Love of Christ” 安達均牧師

牧師説教, by admin1.

イエスキリストの恵みと平安が会衆の上に豊かにあるように! 

 

1909年、北海道の塩狩峠を上っていた旅客列車の最後尾の連結器がはずれる事故がおきた。その車両にはキリスト教徒の職員が乗り合わせていた。 その名前は長野政雄(ながの まさお)兄。 彼は、逆向きに暴走しそうになる客車の前に身を横たえ、暴走を食い止めた。彼は殉職することになったが、これにより多くの乗客の命が救われた。 なぜ長野兄は、自分の身を犠牲にして、人の命を助けることができたのだろうか。 もし同じような状況におかれたら、あなたは、彼と同じ行動をとるだろうか? 

 

ちょっと質問を変えたいと思う、あなたはイエスキリストとどのような関係だろうか? ひとりひとり、さまざまな表現でその関係を描写されるだろう。しかし、もし、縦の関係か、あるいは横の関係かと聞かれたら、どのように答えられるだろうか?

私が若かったとき、こんな話を聴いた。 イエスキリストは主人、そして私たち人間はその仕え人、だから、キリストと私たちの関係は縦の関係。 そして、私と兄弟姉妹の関係は、横の関係。 そして、この縦の関係と横の関係で、十字架をなしている。 

この話は、ある意味、とてもわかりやすく、的を得ていると思った。 しかし、イエスキリストと私たちの関係は、縦の関係だけだろうか? 

 

今日与えられているヨハネ福音書では、イエスは弟子たちに、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。」

これは、イエス・キリストが十字架に架かる前日、つまり最後の晩餐の時に、弟子たちに話していた言葉。 ここで、わかるように、イエスと弟子たちの関係は、主人と僕の関係以上のものになってきている。 そして、イエスは最後の晩餐の翌日には、弟子たちのいたらない部分すべてを赦すために、十字架に架かった。 弟子たちと同じ立場、弟子たちの友、弟子たちを愛しているキリストの愛がある。 それは、イエス・キリストが復活後に、弟子たちに顕れ、「なんで私が十字架にかかるのはとめなかったのか?」とか、「十字架にかかるとき、なんで逃げていったのか?」などと非難の言葉を述べるわけではなく、復活後はじめてあった弟子たちに、「あなたがたに平安があるように。」と言われた。

 

十字架刑から三日目の弟子たち、イエスには、弟子たちが、どんな気持ちでその日を迎えていたかよくわかっていた。 自分たちがなすべきことをなにもできずに、ただ罪や恥の意識で、どうしようもなかった弟子たちの気持ちを察したイエスの愛のあらわれだと思う。 

今日は母の日だが、キリストの愛は、ある意味、子を愛する母の愛にも似ているような愛。 短い話を紹介したいと思う。50円のお金を、自分の家においてあった教会への献金箱からとろうとした6歳の男の子がいた。 しかし、そのまさに取ろうとするところを母親に見つかってしまう。 自分のしていたことが、どんなに悪いことかをわかっているその子は恐くてしょうがない。 その気持ちを十分にわかっている母親はとがめることなく、そっとその子をだきしめ赦す。 

 

イエスが十字架刑に架かる前、そして復活後に語った言葉は、聖書に記載され、世界中の人々に与えられている。イエスの死と復活から2000年たった今も、わたしたちはその同じ言葉を礼拝の中で聞いている。 わたしたちは、礼拝に出るということは、人間がイエス・キリストに仕えるために礼拝に出ていると頭では考え勝ちだ。たしかに、私たちは仕えているが、しかし、礼拝の中で、実は、神ご自身、キリストご自身が、私たちに仕えている面がある。 

 

メッセージの後、岸野先生の司式により聖餐式があるが、その聖餐式のパンとぶどう酒の中に、イエス・キリストの存在がある。そして、イエスが私たちに仕えてくださって、霊的に滋養され、キリストの愛と赦しが与えられ、そして私たちは、礼拝の場から外に向かって派遣される。 

 

メッセージの最初に、長野兄がなぜ、あのようなことができたのか、という質問をした。 長野兄は、クリスチャンであり、礼拝に出て、イエスの御言葉を聴き、そして聖餐に与っていた方。 最初の質問について考えるとき、イエスが弟子たちに対して言っていた言葉が参考になると思う。イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」と語っていた。 それは、長野兄が主語ではなく、主なるイエスが主語で、キリストが長野兄を選び、神の御用のために、彼を派遣した。 そして、客車に乗っていた多くの人々の命が救われただけではなく、長野兄の話は小説になり、また映画にもなり、多くの人々に影響し、いまでも多くの人々の心が動かされている。  

 

私たちは、この礼拝に自分できて、自分で聖餐をいただき、この礼拝堂を出ていくように思い勝ちだが、実のところ、神が私たちを礼拝に呼んでくださり、神がこの礼拝において奉仕してくださり、そして、私たちを、神の御用のために、この礼拝堂から送り出してくださる。キリストの友であるわたしたちは、主イエス・キリストが私たちに与えてくださっている愛を、さらに地域の人々、困難の中にある方々、あるいは家族、友人たちと、分かち合うように導かれている。それは、かならずしも、神が長野氏を通して示したようなドラマチックな愛の示し方ではないかもしれない。 しかし、一人一人、キリストの友として、この上のないキリストの愛と赦しを、聖霊の助けにより示すように、遣わされる。 

この一週間、また、さまざまな境遇におかれると思うが、イエス・キリストの愛が豊かにあなたがたに宿り、そして、キリストの愛を、あなたが遭遇する方々に示されるように祈る。

 

今日は母の日。まだ母が健在とおっしゃる方も、残念ながらもう母を亡くされた方も、あるいは母が病床の中にあるという方もあり、今日の母の日の思いはいろいろ複雑だと思う。 しかし、一人一人、どのような状況であろうが、母のようなキリストの愛が、一人一人に宿っていることを覚え、豊かな母の日を過ごされますように。 アーメン。 

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