「イスカリオテのユダ」 “Judas Iscariot” 使徒言行録1章15-17、21-26節
私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。
「裏切り」と言う言葉を聞いた時、聖書の中ではとっさにイスカリオテのユダを思い浮かべるのではないでしょうか?それはユダが彼の主であるイエス様をユダヤ教をつかさどる祭司、律法学者に30の銀のコインで売ったという事件があったからです。それは恐ろしい事件であり、イエス様がこの先、ユダヤ教のお偉方、また、ユダヤの国を統治していたローマ帝国のGovernor により十字架にかかる死刑の宣告を受けたのです。
しかしその前にイエス様が死んだはずの友達のラザロを甦がえらせると言う奇跡を起こしたことを皆さんは聖書で読んで知っているはずです。過ぎ越しの祭りのある6日前にイエス様は友達のラザロの妹たちのマルタとマリヤを尋ねたのです。食事が用意され、ラザロはイエス様と共に食事の席に着きました。その時ラザロの妹のマリアが非常に高価なナルドの香油を持ってきて、それをイエス様の足に注ぎ、自分の髪でその足をぬぐったのです。このように足を洗う、体に香油を注がれると言うことはお客さんを大切にもてなす、それ以上にイエス様と言う神様から私たち人間を救うために送られた神の子に私たちの最高のおもてなしをすることでした。
そこに同席していたイエス様の弟子であるユダはそれを批判してそんな高価な香油はお金に取り替えて貧しい人たちに分け与えるべきだとイエス様に抗議したのです。ユダがこう言ったのは、貧しい人たちのことを心にかけていたからではなく、彼は弟子たちの中で財布の管理をしていたのですが、その中身をごまかして使っていたからですと聖書は書いてあります。
ユダへの弁解ではありませんが、私は彼がイエス様がユダヤ人のための神様と信じていたと思います。しかしまた、その神様であるイエス様の力でユダヤ人とユダヤの国をローマ帝国のすべてのコントロールからfreeになりたいと思うようになったのです。しかしそれはユダだけてなく、ほかの12弟子の中にも何人か、そのようにイエス様を革命のリーダーとして受りたかった弟子たちがいたのです。
イエス様の教えは時には弟子たちに把握できなかったのです。イエス様がお互いを愛し合いなさいと言うとき、私たちは何時も避けている人たちをも愛すと言うことです。左のほほを打たれたら、右のほほをも差し出しなさいというイエス様の教えは、今までの常識を超えた教えです。何だ、イエス様は本当に私たちユダヤ人に救いを与えるために来たのでなかったかと、そのようにユダは次第に、イエス様から心が離れてゆくようになってしまい、イエス様は、本当の救い主なのかと疑問を持つようになったのです。
イエス様が最後に過ぎ越しの祭りを12弟子と共に守り、その後過ぎ越しの祭りの食事を弟子たちと食べていた時、イエス様は言いました。「はっきり言っておくが、あなたのうちの一人が私を裏切ろうとしている。」弟子たちは非常に心を痛めて「主よ、まさか私のことでは」と代わるがわり言い始めた。イエスはお答えになった。「私と一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、私を裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに去っていく。だが、人の子を裏切るものは不幸だ。生まれなかったほうが、そのものの為に良かった。」イエスを裏切ろうとしていたユダが口を挟んで、『先生、まさか私のことでは』と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」
それを聞いてユダは血の気がなくなったような気分になったでしょう。本当だ、まさに私はイエス様を裏切ろうとしているのだ。私が思うに、これは悪魔の仕業であったでしょう。悪魔は疑いの中で葛藤している人の中にはいってきて、あなたの思いを変えてしまうのです。私はユダが地獄に落ちた、世界で一番悪いやつと言いたくないのです。ユダも自分が悪いことをしたことを後悔したのです。しかしまたその時、イエス様に戻らなければならないのです。イエス様に赦してくださいとお願いすることが大切です。イエス様は本当に私たちが心から赦してくださいと言う時、私たちを赦してくださいます、それが私たちの愛するイエス様の私たちすべての罪人に下さるギフトです。イエス様は必ず赦してくださる方なのです。
しかしそれは私たちイエス様に従って生きてゆこうと決心した者の中にも、私を含めて、人に喜び、感謝、奉仕、祈り、励まし合い、優しい心遣いで人と接したいとを思いながらも、それと反対に、一人ぼっちになって、暗い部屋の片隅でなんて惨めな私、私たちだろと考えてしまう時があるのと同じではないでしょうか。
今日の説教は他人のことを言うのではなく、わたしの自分の心をさらけだして語っているのです。私はイエス様を世の救い主と信じます。イエス様にしたがって生きていくという宣言もしました。牧師として皆さんにイエス様への信仰の導きを語る者、しかし自分の中に、いつも神様に愛され、喜びの心に満ちていると言う人間でない自分の姿があることも知っています。私は自分の思い、感情がいつも顔に出てしまいます。喜びの時はSMILE と涙がいっしょに出てしまうのです。
疑いの時、心落ちしている時は、自分一人でいる時間が欲しいのです。そこで、イエス様に、こんな私ですが、あなたは私を愛してくださいますかと心の中で会話の時を持つのです。しかし、今ここで語っていることは、私だけではなく、皆さんの中にも疑問の時があるでしょうし、本当にイエス様、あなたは本当に、私を愛してくださっているのですかと質問をした人たちが沢山いらっしゃると思います。イエス様は私たちの心の中をすべてご存知です。ではイエス様との祈りの会話なんていらないんじゃないかと言われるかも知れませが、いやそうであるからこそ祈りの時をもって欲しいのです。一人でくよくよ悩むことを私はよく経験しますが、イエス様はその悩みも一つ一つもご存知で、ある時に私に語りかけてくださるのです。イエス様の他に、人生の色々な問題に、頼れる人、あるいは頼れるものはあるでしょうか?
ある人にとってお金がすべて、幸福がすべて、有名になることがすべて、あるいは健康でいられることが一番大切と信じる人は多いと思います。私、私たちにとって一番大切なのはイエス様です。イエス様は、私たちのすべてを知っている救い主、慰めぬし、許しの主、励ましの神様です。そのような神様であるイエス様に私たちは生かされているのです。生かされているのはただ私のためでなく、私の受けた神様の愛をほかの人にも受け取ってほしいと祈ることです。
最後にもう一度イスカリオテのユダについて一つだけ語ることがあります。イエス様を裏切ったユダは地獄に落ちた。神様との関係を絶つてしまったと云われていますが、覚えていてほしいことは、今私たちが神様にそむくことがあっても、イエス様は私たちを見捨てることはしないと言うことです。イエス様は辛抱強いお方です。何回も、何回も、何回も、私たちが心から罪の告白をするたびに私たちを赦してくださるのです。私たちはイエス様にとってかけがえのない神様の子供なのです。そのことを信じて、神様、イエス様に感謝をしながら生きることができる私たちになれるように祈ることを主は私たち一人ひとりに求めていらっしゃるのです。アーメン。