キリスト教の暦の中で、お祭りの日が幾つかあります。それはクリスマス・イエス様の誕生日、イースター・復活祭、その次に、ペンテコステ・聖霊降臨日を思い出すでしょう。しかしペンテコステという名前は聞いていますが、それはいったいどういう日なのでしょうとクリスチャンの中でも、なかなか答えが出ないことがあります。
しかしペンテコステのペンテはラテン語で5の意味がアメリカの国防庁の建物が5角形(ペンタゴン)、また旧約聖書の最初の5書はペンタチュウクと呼ばれています。ペンテコステは、クリスチャンにとって、復活されたイエス様が50日たった時、イエス様にしたがって来た人たちに聖霊を注いでくれた日です。また、目では見えないイエス様が、聖霊と言う形で、私たちのところに来られ、私たちといつも共にいてくださる約束を確認することができた時です。
復活されたイエス様が、「わたしはいつもあなたがたと共にいる」と言う約束は多くのクリスチャンにとってとても心強いことです。ペンテコステはまた教会の誕生日とも言われています。エルサレムに世界のいたるところから帰ってきていたユダヤ人のひとりひとりの上に、聖霊が降ったのです。するとそこにいた人たちは自分の母国語でイエス様に賛美の言葉を語り始めたと聖書は書いてあります。私は6年間テキサスのダラスの教会で牧師として働きましたが、テキサスには異言を語るクリスチャンの教会が沢山ありました。しかし異言を語るだけではなく、多くの人が手を高く上げて踊りだすのです。その中で恍惚状態になり、失神する人も出てきたのです。
一般の説教の代りに、沢山の人が、何か訳も分からないことを口にしているその姿を見て、これも一つのキリスト教の礼拝なのだというのに私は否定しませんが、今日の聖書に書かれている異言とは、いろいろな国から来てエルサレムに集まった人々が聖霊を受けて自分たちの言葉で神様の偉大な業を語り始めたということで、これはイエス様とイエス様の教えが、世界中に広まって行くことを前兆としての姿です。
ペンテコステはキリスト教会の誕生日であるといいましたが、使徒言行録の2章の中に、教会の初め、それは建物としての教会と言うより、イエス様を主と認める、またイエス様にしたがって生きていこうとの決意をした人たちにとってイエス様が聖霊として私たちと共にいてくださると言うことはなんと力強いことだったでしょう。
この日、3千人もの人がイエス・キリストを世の救い主と認め、洗礼を受けたのです。彼らの顔はまさに輝いていたと思います。この3千人の人たちはどんな心境になったでしょうかと考えていた時、私は頭の中に小さい時日曜学校でよく歌った子供讃美歌を思い出しました。それを歌ってみましょう。
「主に従い行けば、いかに喜ばしき、心の空晴れて光は照るよ。みあとを踏みつつ、共に進まん、みあとを踏みつつ、いさみて進まん。
主に従い行くは、いかに幸いなる、悪しき思い消えて心は澄むよ。みあとを踏みつつ共に進まん、見あとを踏みつつ、いさみてすまん。
主に従い行くは、いかに心強き、恐れの陰うせて、力は増すよ。みあとを踏みつつ共に進まん、見あとを踏みつつ、いさみて進まん。」
聖書は、ペテロの言葉で、私たちにはっきり語っています。それは、「悔改めなさい、めいめいキリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と。
聖霊も賜物の一つですが、ほかにもたくさんの賜物が私たちに与えられるのです。ギリシャ語で、「恵み」と「賜物」は同じ語源から出た言葉です。それは「愛」、「喜び」、「平安」、「寛容」、「親切さ」、「善意」、「誠実」、「柔和」、「自制」と言う、私たちの生活の中で、いつもなすべき心の持ち方と私は思います。私たちがお互いを支えながら生活する中で、今述べた、一つ一つの言葉をこれはイエス様が、私たちに毎日の生活の中で実行されるように求めているのです。もう一度その言葉と私たちの心の持ち方を聞いてください。「愛、喜び、平安、寛容、親切さ、善意、誠実さ、柔和、自制」と言う言葉です。
聖霊の賜物を受け取った人たちは顔が輝いていると言われています。それは顔に隠せない喜びとして顔に出てしまうからです。このことに関して、ある人から聞いた話を聞いてください。
今から150年ほど前のカリホルニアのgold rush の時、金を探して歩き回っていた3人の男たちが、あるところに金の塊をいくつか見つけたのです。そこで、この秘密を誰にも言わないようお互いに誓ったのです。町に行き、彼らが金を掘る許可証をもらい、金を発掘するための道具を買い入れ、秘密の場所に戻ったのですが、彼らを追って沢山の人たちがついてきたのです。なぜかというと、彼らの顔の表現が、喜びに満ちていて、ほかの人が一見して、ああ、あいつらは、金のでた所を発見したに違いないと感じたからです。
もう一つ、教会の礼拝の中で起こったことをお話しましょう。お母さんがまだ3歳になったばかりの男の子を連れて教会に来るようになりました。この男の子、礼拝中泣きもしない、駄々もこねないいい子でしたが、時々後ろを振り向いて、みんなの顔を見て大きなスマイルとウインクをしていたのです。この子のスマイルとウインクは大人の人の心を穏やかにして、大人の人もこの子にスマイルとウインクを返したのです。しかし、この子のやっていることを見つけたお母さん、男の子の耳を引っ張り、「だめですよ、ここは教会なんですよ」と叱ったのです。男の子は叱られて泣き出しましたが、お母さんは、「しずかにしなさい。泣くなら小さな声で泣きなさい」と、またこの子を叱ったのです。私も母によく教会では静かにしなさいといわれてもそれを守ることをしなかった。でもイエス様には愛されていると感じていました。
私が礼拝堂の前で皆さんを見る時、そこで顔が輝いている人もいれば、何か心に悲しみ、心配事があり、悲しそうな顔をしている方を見出します。ティシュウで涙を拭いている人もいます。ペンテコステ、聖霊降臨日はこれから先、イエス様が私たちの生活の中で、私たちが悲しいときも、苦しいときも、喜びのときも必ず私たちと共にいてくださることを約束してくださったのです。それは甦えられたイエス様は、聖霊として私たちと何時も共にいてくださることを知ることです。
教会はこの聖霊降臨日に始まり、イエス様が、私は世の終わりまで私達と共にいると約束された集まるところです。私たち、一人ひとりが何故イエス様を救い主と受け止めたのかとの質問に私はこう答えます。イエス様が救い主の神様と私が呼べるのは、実は神様の聖霊が私に働きかけ、イエス様を神様を呼ぶことができ私にしにしてくださったからです。皆さんもイエス様を信じたい、信じられるようになるには何をしたら良いのかと考えた時期があったはずです。
しかしイエス様を救い主と認められるようになったのは自分で納得ができるように祈ったその結果ですか? 私が口癖のように言うことは、それは、神様である父と子であるイエス様、そして聖霊の働きで、私、私たちの心の中にイエス・キリストが救い主であるという信仰を私たちの心の中に育ててくださったと言うことです。
このペンテコステと呼ばれる教会の誕生日は神様からいただいた聖霊によって始まり、これからも主イエス・キリストこそわが救い主と告白する私たちの信仰により続いて行くのです。この聖霊は目では見ることができませんが、私たちを支えてくださる神様の力です。イエス様が私と共に何時もいらっしゃると信じられる人は本当に幸福です。主によって私たちは生かされ、愛の精神を持って人生の毎日を送くれることができるからです。
祈りましょう。
イエス様、あなたは、私たちに素晴らしい賜物を幾つもくださいました。その一つが、あなたが私たちの心の中で育ててくれた信仰です。このペンテコステ、神様の聖霊が人々の心に働いた日を感謝します。あなたの聖霊が私たちを導き、私たちのイエス様に従う思いと行動にて、まだあなたを知らない人たちに、主に従い行くとはいかに喜ばしきことであるかを知ることができるようにしてください。この祈りを主、イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。