創世記3章8-15節「隠れる事、探し出される事」 “First Story of Hid and Seek”
私たちの父なる神と,主イエス・キリストから恵みと平安がありますように。アーメン。
先月テレビでChinaのgrowing pain と言うリポートを見ました。たった23年前にはまだアメリカ人は中国に行くことができてもよく警察官が旅行中同行すると言う時代でしたが、今中国人たちはwestern cultureを受け入れています。若い人たちのFavorite foodはKentucky Fried Chicken と MacDonald の Hamburger だそうです。
また、アメリカではタバコを吸う人が減ってきているのに中国では70% もの男の成人は毎日一箱のタバコを吸うと聞きました。しかし、健康を害すると、それをマクドナルドやマーボロのたばこのせいにするのです。しかしこの問題は誰のせいでもありません。自分が自分で正しい行動をしたいと言う思いがない限りできないのです。そのことを覚えて今日のアダムとイブの話を考えて見ましょう。
私はfast food と言われるものを余り食べません。まったく食べない訳ではないのですが、それよりはどちらかというと日本のスーパー・マーケットで、蕎麦かうどんを食べるのが好きです。もっとも一人で食べるより誰かと一緒に食べるときが大好きです。
しかし聞くところによると、毎日、朝、昼、晩とマクドナルドでハンバーガーを食べる人もいるらしい。この頃はどのハンバーガーに何カロリーと書くfast foodのお店が増えてきたと聞きますが、毎日ハンバーガー食べていたら健康の障害が出てきて当たり前でしょう。
同じように私の日本での友達の中には毎日タバコを吸わないと落ち着かないと言う人たちが何人もいます。タバコは健康を損なうものと知りながら、やめることができないとはかわいそうに思うのですが、彼らの中にはこれはタバコを作る会社がいけないんだとか、もっと昔からタバコの害を公に話していてくれたらニコチン中毒まで行かなかっただろうという友達もいます。私がそれを聞くと自分のやっていることを人のせいにしているように感じるのですが。
さて今日の旧約聖書の話はまさに、自分の問題を他の者、他の人のせいにする、つまり自分の欠点 を神様のせいにしているアダムとイブの有名な話です。
エデンの園という所でアダムとイブは働きもしないで毎日神様が造られたおいしい果樹をおいっぱい食べていたはずです。このエデンの園にりんごの木があったとは書いてありませんが、聖書の中にはイチジク、葡萄、オリーブ、マスタード、メロン、デイツ、ぺスタシオ、アーモンド、ガーリック、ざくろ、そして、りんごも出てきます。これは聖書辞典で調べるまで知らなかったのですが、旧約聖書の雅歌2章3節に乙女の歌と言うものがあります。そこには「若者たちの中にいる私の恋しい人は森の中に立つりんごの木。私はその木陰に座り、甘い実を口に含みました。」と書いてあることから、エデンの園にあった、食べてはいけないと言われていたこの果実がりんごであってもおかしくないのです。
私たちは自分でしたことに責任を持つべきですが、自分を正当化することが多いのではないでしょうか。私は間違い事を犯しましたと言う前に、何かによって、または、誰かによって間違ったことをしてしまいましたと言ったことが過去に沢山あったはずです。神様の前で、嘘をつくことはできませんが、いろいろな理屈を付けて自分を正当化するのが私たちではないでしょうか?そんな私たちを神様はすべてご存知です。ですから神様から隠れたくなるのです。裸でいたことが神様の前で急に恥ずかしくなり、イチジクの葉っぱで身を隠したのです。自分の罪を隠したかったのです。
ここで悪いことをした理由のこじ付けをしたのはアダムだけではなく、イブも禁断の果実を食べた理由は蛇にそそのかされたからですと言ったのです。神様はエデンの園という、素晴らしい所で幸福に生きてゆくことのできたはずの人間は罪、それも生まれながらすべての人間は原罪、は を持つことによって、自分で自分を救うことはできないのです。では、私たちはどのように神様との関係を正しく持つようになれるのでしょうか? どのような行いによって私たちは神様の前に神様の者であるとの信頼を築くことができるのでしょうか?
私たちは自分の行い、努力によって神様に愛される者となることができません。自分で、自分の力で、自分の行いによって神様の前で正しい者となることはできません。神様から愛される私たちになれることは、神様の言葉、それは「私はあなたを条件なしに愛します」と言う言葉を自分の心、胸のうちに刻み込むことです。神様の前で私たちは謙虚に自分の犯した間違い、高慢さ、罪の意識をすべて告白しなければなりません。神様は私たちが謙虚になり、子供が親を慕うように私たちに神様の元に素直な心で来てほしいのです。神様から隠れることは私たちにできません。
子供の時、誰でもかくれんぼと言う遊びをしたことがあるでしょう。最初に見つかった人が今度は目を瞑って1分ほど数えた後に隠れた人を探しに行きます。私たちの神様であるイエス様は、私たちが、どんなにうまく隠れてもかならず探しだしてくださいます。しかし、遊びのかくれんぼと違い、私たちは神様から見つけられたいのです。神様から遠く離れていては私たちは孤独で、寂しい、怖い、恐怖の中で震える生活の連続です。しかし、神様は私たちが、どこに隠れていても探し出してくださり、私たちを神様の愛の下に返えらせてくださいます。もう一度聞いてください。神様は私たちがどんな状況にいる時もわたしたちを捜し求め、神様のみが胸の中に抱いてくださるのです。
今日のこのメッセージの中で知って頂きたいことは神様は何時も私たちが神様の身下に戻ってくるように待っていてくださっていることです。私たちが神様の前に罪の意識を持っていて出て行けないときはイエス様、神様自身が私たちの所にやって来てくださいます。
私の牧師としての役目は、病気、または自分の家から出ることの出来ない人たちを尋ねることです。そして一緒に聖餐式を行います。その前にヨハネの第一の手紙1章8節を読みます。そこにこう書いてあります。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちのうちにありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださいます。」これは神様、イエス様からの約束です。
神様から隠れることなく、すべての思いをを神様に祈りの中で語ってください。私たちの人生のあらゆる所でイエス様と出会う機会が信仰を持つ者に与えられているのです。アーメン。