マルコによる福音書4:26-34節 「私たちの信仰とは?」“What Is Our Faith?”
私たちの父なる神と主イエス・キリストから平安と祝福があなた方の上にありますよう。アーメン。3ヶ月それはテキサスの暑い夏でした。しかし暑いというのも日本の湿気のある暑さと違い、湿度5%のからからの暑さ。その時毎日新しくできつつあるGrand Prairie とArlington と言うダラスの郊外の新興住宅を一件、一件、これから始まる新しい教会の案内状を持ってドア・ノックをしました。私の仕事はその新しいCommunityで新しい教会を建てることで、その為には人を集めることでした。毎日100件ほどの新しい家を訪れ、「どこかの教会に行ってますか?もしここで新しい教会を探しているなら、私はこの秋を目指してここにルーテル教会を開きますのでおいでください」と招待をしたのです。
しかしこの夏は30年ぶりの華氏でいう100度以上の日、摂氏はで40度を超えた日が40日続いた夏で、北テキサスでの農業は痛手を蒙ったのです。雨がないので草が育たない、とうもろこしも、ほかの穀物もみんな枯れ、倒産した農家、牧場主が続出したのです。私も生まれて始めて日射病にかかり、不思議なことに目で見えるものが皆白黒でしか見えなくなり、病院に担ぎ込まれました。
真剣にどこの教会も毎週神様に雨を降らせてくださいとのお祈りの時を持ったのです。ある教会で牧師さんが信徒の人たちにこうお願いしました。「今は祈ることしかない。みんなが一緒に祈れば、神様は必ず私たちの祈りを聞いてくださる。さあ家に帰って一生懸命祈りなさい。そして来週の日曜日は神様が雨を降らせてくださったことで感謝の祈りを捧げましょう」と。さて次の日曜日が来て皆が礼拝に集まった時、牧師さんはこう言いました。「ああ、信仰の薄い者よ。何故あなたたちは雨が降ると信じなかったのか」と。信徒の人たちは声をそろえて言いました。「私たちは祈りました。今でも雨が降ると信じています」。「本当ですか?」と牧師さん。「もし雨が降ると信じているなら今ここに誰も傘を持ってきていないのは何故でしょう」。
さて、今日の福音書の言葉は私たちの神様への信仰と信頼とはどのようなものであるか、またイエス様は神様の国とそれを見ることも、完全に理解することも今まだできない私たちの信仰が どのように成長するかを語っているのです。イエス様はお百姓さんがなすべきことのお話をしているのです。お百姓さんは種をもう耕してある土の中に埋めるのです。これらの種がどのように成長するかは考えるかもしれませんが、それについては神様にお任せし、自然現象として種から芽が出、茎が伸びるようになります。そして葉っぱが出てきて、最後には花が咲き、そこに実を結ぶことを信じるのです。刈り取りの日が来るのです。福音書に出てくる、「寝起きしているうちに」と言う意味はお百姓さんが蒔いた種に何一つしなくても神様によって時間が立てば収穫の時が来ることを信じているのです。
お百姓さんが、どんなに心配しても種が育ち、収穫の時が来る時まで辛抱強く待つ事しかできないのです。自然に任せると言うことは私たちにとって難しいのですが、同じように、いつも神様を信じなさいと言うことも、クリスチャンになったからと言ってなかなか難しいのです。神様、こうしてください、ああしてくださいと言ってしまうのが私たちではないでしょうか?
神の国は神様に依って来ます。わたしたちは神の国を自分たちで作ることはできません。しかし、私たちは神様が私たちの心の中に、神様の国、神様の平安、神様の愛の社会の種をまいてくださっているのです。私たちがなすべきことは言葉と行いによって神様に忠実に生きてゆくことです。宇宙を司どる方、またその神様が私たちの目では見えなくても、私たちが神様って本当にいるんでしょうかと疑問を持つ時にも、神様は私たちから離れ去ることはないと信じてください。神様は私たちを見放すことはなさいません。私たちの信仰は、神様からの一方的な私たちへの愛に基づいているのです。神様は私たちから、離れることがない、見放すことはないと言うことです。
では東日本で昨年起こった地震、津波、原子力発電所の事故で家族、家、財産を一瞬にして奪われた人たちは、何か悪い事をしたからですか? いやそうではありません。では何故ですか?以前この復活ルーテル教会で、日本福音ルーテル教会から宣教師として働いていた伊藤先生が、仙台で日本福音ルーテル教会を代表してこの災難を経験された人たちを定期的に訪れ、被害者に同じ人間としての悲しみと苦しみを分かち合っていた時、同じく日本に帰られていたJune吉成さんと共に伊藤先生を仙台訪ね、先生の運転する車で被害地を回りました。これは後で吉成さんが語ってくれたことですが、一番感動したのはある中年の女性の心の持ち方です。その方は大川小学校という半数以上の生徒の命が失われた小学校の近くに住んでいる方で、彼女の家も流されました。家族の人も津波に飲み込まれました。すべてのものが瞬間的に彼女から取り去られたのです。彼女はしかし助かったのです。どうして私だけが、このように命を奪われなかったのかと何回も何回も思ったでしょう。
この人がすごいなあと思ったのは、彼女は同じ災害にあった人の世話をする仕事を始めたのです。毎日、毎日、同じようにすべてを奪われたおじいちゃん、おばあちゃんの面倒、書類の作成、仮設に入っていた人たちの世話をしていたのです。今でもしているでしょう。私たちとの会話の中で、この女性は一言も愚痴をこぼさなかった。自分がこの災害にあってどんな苦しい時を持ったのは確かです。しかしそれを乗り越えて、それ以上に悲しみに中でひとりで立ち上がることのできないお年よりたちの世話をしているのです。災害地を回って4階建てのコンクリートのビルが倒れていた、ずいぶん内陸の所にあった3階立てのビルの上に観光バスがぽつんと乗っかっていた。すごい数のトンビが川の乾いたところでで何かを口ばしでつついて探している、そのような場面も忘れられませんが、すべてを失った、独りぼっちになったこの女性がほかの被害者の面倒を見ている、その生き様を見て感動しました。彼女が、仏教の信者か、それともほかの宗教の信者かその所は聞きませんでしたが、もしこの人が、クルスチャンでなくても、この人は神様の御心に近い人と心の中で思いました。
今日はこの教会に来られてからもう一年ほどたつJune吉成さんの洗礼式を行います。二人の友達が教保となってイエス様を神様と信じますと言う信仰告白をされた後に洗礼を受けます。イエス様と言う神様に従い、信じる者になると言う儀式です。この式の中で、信仰告白をすることは、神様に従う弟子となることです。
クリスチャンになることは洗礼を受けることによって始まります。しかしこれは特に日本人にとって勇気のいることです。その多くの人の家族、親、友達も先祖代々仏教、神道の人がイエス・キリストを神様として、愛の精神を持って生きてゆくことを宣言するからです。私は小児洗礼を受けましたので、自分の洗礼式を覚えていませんが、父も母も青年時代に洗礼を受け、クリスチャンとしての恵みはそれに変えられる物がないとの発言をよく聞いたことがあります。神様への信頼、信仰は私たち一人ひとりの中でいろいろな形で現れ、皆さんも信仰生活の中でイエス様と対話を心の中でなさった方がいるはずです。神様は皆さんの心の中の隅々まで、すべてをご存知です。しかしイエス様との祈りの時は大切です。心の嘆き、悲しみ、苦しみ、喜びをすべて神様、イエス様の名によって語ってください。
最後に毎月贈られて来る日本福音ルーテル教会の機関誌である「ルーテル」の中に今日の福音書のからし種に書かれていることをその記事の著者の松田繁雄先生の書いた「雑草のしぶとさ」の一部を少し紹介して今日の説教を終わります。
「クロガラシと呼ばれる辛し種は砂の一粒ほどのせいぜい育っても2メートルぐらいの雑草ですが、種はとても辛い一年草です。しかし、生命力は強く水や肥やしをやらなくても勝手に種を撒き散らしてゆくのです。聖書にはレバノンの杉と言うような素晴らしい大きな木が書かれていますが、毎年枯れてしまうクロガラシでも鳥が媒介になって翌年も、また次の年もそこいら中に, 新しい芽をふき、根を張り、実を結びつけるのです。それは。実にしぶとく、世の移り変わりにも耐えて、広がっていく、息の長い神の支配、そのようには喩えは語っているのではないでしょうか」。
私たちは雑草のように見られてもいいのです。一生懸命になって生きる人間になること、それは私たちのすべてを尽くして神様の愛と慈しみを私たちに関係する人たちに伝えてゆくということではないでしょうか。私たちの神様への信仰はどのように育つのか、はっきり言ってよく説明することはできませんが、神様が私たちの心の中に信じることのできる心と、お互いを助け合って生きてゆく、その様な人間になれるよう私たちを導いてくださるのです。アーメン。