マルコによる福音8章27-35節「あなたは私を“誰”と呼ぶか?」 “Who Do You Say I Am?”
私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平安が、あなた方の上にあるように。アーメン。
私たちは誰でも名前を持っています。それもAさんとか、Bさんとか言う暗号のような名前でなく、小百合さん、太郎さん、花子さん、一郎さんというように名前を呼ばれてその人のイメージがすぐ頭の中に浮かびます。その一人ひとりのイメージは、私たちとの時間をかけての関係の中で作られ、生涯忘れることもない大切な人、友達となるのです。同じように学校の担任の先生、スポーツのコーチと、学校を卒業しても長い付き合いを続けている人も数多くいるはずです。時々人の名前を度忘れして冷や汗をかいたことがありますが, 「同じようにあなたの名前忘れてしまいましたが、苗字は岸野さんですよね」と言われて、ああ良かった、覚えてくれていたのかと嬉しくなる時もあります。
さて今日の福音書の中で、イエス様は、弟子たちに、「人々は、私のことを何者だといっているか」と質問なさいました。弟子たちは、「イエス様、あなたは洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、また預言者の一人だという人もいます」と答えたのです。実際これらの人たちはユダヤの歴史の中で、民衆から尊ばれていた人達です。そしてイエス様は続いて弟子たちに尋ねます。「それでは、あなたがたは私を何者だというのか」。わたしはこの質問をイエス様は弟子の一人ひとりの目を見つめながら言ったと思うのです。というのはこの質問を出したイエス様は、もう3年間、12弟子と共に生活してきたのです。同じ釜の飯を食べてきたのです。イエス様の前に集まった群衆の前で山上の説教、または山上の垂訓を教えられたのです。弟子たちは今までの律法学者の教える律法について、それはそれを完璧に守ることで救いを得るという今までのユダヤ教の教えから、律法は守るべきものであるが、それが守れない人間の弱み、しかし律法が守れない私たちはイエス様の無償の愛によってのみ救いに預かることができると教えられていたのです。
これらの教えを弟子たちに直接的に語ったこともあれば、群衆の中でイエス様の話に感動して後についてきた多くの人達を見て、このイエス様はただ単なる偉大な教師ではなく、本当に神様から送られてきた救い主だと心の中で思っていたはずです。
今日の福音書は、その弟子たちにイエス様が直接に尋ねた質問です。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」またそれ以上に、「あなたは私を何者だと言うのか」と質問されたのです。私たち、イエス様に従って生きていく決心をした者にもイエス様は同じ質問を投げかけているのです。
皆さんがまだ学生だった時、それは幼稚園、小学校、あるいは中学生の時、先生がクラスの生徒に質問をするといつも真っ先に手を上げて、「はい、はい、私をその答えを知っている」と先生の注目を引くそのような生徒がいたはずです。皆は、「またあいつか、知ったふりして、また、胡麻をすっている、あいつは先生のペットみたいなやつだ」と心の中で思ったはずです。私が小学校の4年か、5年生の時、それは算数の授業でそろばんでの足し算、引き算のやり方を習っていた時です。先生は言いました。「これから私が出す数字を足し算なり、引き算なりで練習しましょう」と。そして先生はゆっくりと2プラス9、プラス11、マイナス7、プラス50、マイナス18、誰か答えを教えてください」と。一桁の計算ならすぐできるけれどそろばんを使って3桁も4桁もある計算はもう頭のなかがこんがらがって、いつも出てきた答えに自信がなく、手を上げることもなかったのです。しかし皆が手を上げている、何か自分だけがそろばんができないのだろうかと思い込み、このままでは、通信簿で算数はまた低い点をもらうのではと迷い、その結果、手を今まで上げられない屈辱に負けたくないと「先生が、今度の答えの出た人は』と言った時初めて手をびくびくして上げました。今まで手を上げられないことに屈辱感を感じていたからでしょう。でもその答えが本当に分かっていたはすではないのです。「おお、岸野君、答えはいくつでしたか?」と言われて心臓がどきどき、立ち上がって答えを出す時、「ア、そろばんが動いちゃって答えがからなくなりました」と真っ赤な嘘をついたのです。それを50年経った今でもはっきり覚えているのは、人生の中で悪いことをした、嘘をついた、人を傷つけたということを私たち人間は、心の呵責としていつまでも忘れることがないからです。
イエス様は今日の福音の中で、弟子たちにこう質問しました。「あなた方は私を何者だと言うのか?」でも考えてみてください。弟子たちはイエス様と共にもう3年間一緒に生活をしてきたのです。イエス様は、弟子の一人ひとりの顔を一人ひとり見つめながら悲しい思いにかられたでしょう。と言うのは、イエス様はもう自分の時が来ると感じていたでしょう。自分の時とは、イエス様が十字架にかかる時、それは世界のすべての人の罪のため、その罪をご自身でしょって私たちの罪を取り除いてくださると言うことです。
ただペテロだけが、「あなたはメシヤ、救い主です」と答えたのです。聖書には書いてありませんが、イエス様はペテロの告白を聞いて、ペテロありがとう。あなたは私が人類の救いのために来たことを知っていたのですねと思ったのではないでしょうか。同じ記事を書いたマタイによる福音書は、この他に、「シモン・ペテロ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを示したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。そしてあなたの名前いわく、ペテロ、岩の上に教会を建てる」と。
そう言われてペテロは有頂天になったのです。しかしイエス様は、人の子は多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活すると弟子たちに教え始めたのです。それに対しペテロは「そのようなことがおこってはなりません」と答えたのです。
私は聖書の中で自分に一番近い性質を持った男が、ペテロだともう何年前から感じています。イエス様を神の子と認め神様に、一生懸命ついてゆける人間になりたいと思っています。しかし困難なことが起こると、イエス様に何故、どうしての質問で頭の中がいっぱいになるのです。そのような時、祈りの時を持ちなさい。イエス様を固く信じなさい。と言われ、本当にそれができるようなイエス様に従う私になりたいのです。
私が思うに、完全な人は殆どいません。私たち、一人ひとり、不完全な者ですが、ただ神様の恵みにより私たちは愛されたものと呼ばれているのです。不完全の私たちが少しでも完全な者となることができるように、神様は私たちに愛の心と信じる心を与えてくださっているのです。アーメン。