November 13th, 2012

2012年11月11日聖霊降臨後第24主日聖餐礼拝説教「最も小さいものは最も大きなもの」”The Smallest Is The Largest”岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

マルコによる福音書12章38-44節    「最も小さいものは最も大きなもの」

私たちの父なる神と主イエス・キリストより祝福と平安があなた方の上に有るように。アーメン。

聖書を読んでみると、そこに沢山のパラドックス、逆説的な言い方が見つかります。たとえば、最初の者は終わりになり、終わりの者は最初の者になるという言い方です。弱い者は強いものであり、今日の福音書によると、最も小さなギフトは最も大きなギフトだというのです。

今日の福音書を読んで見ますと、一人の貧しい寡婦が、一番低い価値の銅貨二枚を賽銭箱に入れたと書いてあります。この女性は夫が先に亡くなり、今でいうSocial Security も、Pension も、この時代には、生命保険も無かったので、主人那が死んでしまった後には、息子がいないならば、仕事も出来ず見つけることも出来ず、物乞いをして暮らすことしかできなかった訳です。しかしながら、この老いた女性はたった2枚の一番価値の低いお金、それも彼女の持っていた最後の銅貨2枚を神殿の賽銭箱に収めたのです。

イエス様は財産のある人が納める献金をどうのこうの言っているのではありません。しかし、財産を持たない人が、献金をする姿を讃えいるのです。勿論銅貨2枚といっても2セントのような微々たる献金でしたが、彼女にとってそれが全財産だったのです。イエス様はそれを知っていたのです。さて、この女性の行いから3つのことを学ぶことができます。第一に、この寡婦が貧乏であるにもかかわらず、献金を捧げたことです。第二はこの寡婦はこの献金を心のこもった思いで捧げたことです。そして第三は、この寡婦の献金が神様によって祝福されたことです。

この寡婦が与えた献金が、それは全財産であったことも大切なことですが、それ以上に自分には今何もない状態の中で神様に感謝したことです。彼女は献金をした時、どれだけしたらよいかと考えるより、神様に献金を捧げることができることに感謝したのではないでしょうか。思い出すに、神様は何もしない野ばらにもその素晴らしい姿、香を与えてくれると聖書に書いてあります。私たちの神様に差し出す献金は心のこもった神様への捧げものであるならば、それが幾らであろうと神様に喜ばれるものであると思います。

これは私がもと牧師として働いた、テキサス州ダラスの教会の会員ですが、その人はまだ、いろいろな所で開拓されていない何千エーカーもある土地を買い、その土地に電気、水、下水、また将来の住宅、shopping center, 学校の土地を確保していく仕事をしていたland developer と言われたやり手でした。みなさんの中で1980年代にポピュラーだった “Dallas”という テレビの番組を見たことのある方いると思います。この人は、このようなplan  development 土地の一つ一つに、教会が必要と、5エーカー 程の土地を無償で、多くの教会に与えたのです。ダラスでこの人がお金持ちであることは誰でも知っていました。しかしそれ以上に、彼は熱心なクリスチャンとして知られていました。彼はイエス様の福音を多くの人に知って欲しいという熱情を持っていたのです。ですから一概に、裕福の人が神様の国に入るのは難しいとは言えないでしょう。

これは誰でも経験したことがあると思いますが、クリスマスになる前に、子供たちの欲しがっているプレゼントを買って、クリスマスイブに子供たちがベットに入ったのち,一つ一つのプレゼントを包んで、クリスマス・ツリーの下に置いたのを覚えているでしょう。日本から、またPennsylvania のおじいちゃん、おばあちゃんから送られたクリスマスのプレゼントもクリスマス・ツリーの下におかれたのです。朝早く起きてきて興奮している子供たちの顔を思いだして下さい。大人になって、また親になると、私たちは、人に何かを差し上げたい、分かち合いたいという気持ちが大きくなって来たのに気が付きました。何かを受ける、頂くことも感謝ですが、それ以上に何かを与えたいという気持ちです。それは、金銭的なことだけでなく、心の中で生まれた人々への思いやりと、その感謝の思いが私たちの心の中であるはずです。来週に感謝祭を守りますが、私たちは、誰でもこの感謝の心を大事にしたいたいと思っているはずです。感謝のない心はかたくなな心、そしてこのかたくなな心は喜びを求めません。喜びのないところにどの様に人々が集まることができるでしょう。

さて、皆さんは、「鶴の恩返し」という話を知っているはずです。これは私の一番好きな日本の民話です。それを聞いてみてください。

昔々、貧しいけれど、心の優しいおじいさんとおばあさんがいました。ある寒い冬の日、おじいさんは町へ薪を売りに出かけました。すると途中の田んぼの中で、一羽のツルがワナにかかってもがいていたのです。
「おお、おお、可愛そうに」
 おじいさんは可愛そうに思って、ツルを逃がしてやりました。
 するとツルは、おじいさんの頭の上を三ベん回って、
「カウ、カウ、カウ」と、さもうれしそうに鳴いて、飛んで行きました。その夜、日暮れ頃から降り始めた雪が、コンコンと積もって大雪になりました。おじいさんがおばあさんにツルを助けた話をしていると、表の戸を、トントン、トントンと、叩く音がします。「ごめんください。開けてくださいまし」若い女の人の声です。おばあさんが戸を開けると、頭から雪をかぶった娘が立っていました。おばあさんは驚いて、「まあ、まあ、寒かったでしょう。さあ、早くお入り」と、娘を家に入れてやりました。
「わたしは、この辺りに人を訪ねて来ましたが、どこを探しても見当たらず、雪は降るし、日は暮れるし、やっとの事でここまでまいりました。ご迷惑でしょうが、どうか一晩泊めてくださいまし」娘は丁寧(ていねい)に、手をついて頼みました。「それはそれは、さぞ、お困りじゃろう。こんなところでよかったら、どうぞ、お泊まりなさい」「ありがとうございます」娘は喜んで、その晩は食事の手伝いなどをして働いて休みました。
あくる朝、おばあさんが目を覚ますと、娘はもう起きて働いていました。いろりには火が燃え、鍋からは湯気があがっています。そればかりか、家中がきれいに掃除されているのです。「まあ、まあ、ご飯ばかりか、お掃除までしてくれたのかね。ありがとう」
次の日も、その次の日も大雪で、戸を開ける事も出来ません。娘は、おじいさんの肩をもんでくれました。「おお、おお、何て良く働く娘さんじゃ。何て良く気のつく優しい娘さんじゃ。こんな娘が家にいてくれたら、どんなにうれしいじゃろう」 おじいさんとおばあさんは、顔を見合わせました。すると娘が、手をついて頼みました。「身寄りのない娘です。どうぞ、この家においてくださいませ」「おお、おお」「まあ、まあ」おじいさんとおばあさんは喜んで、それから三人貧しいけれど、楽しい毎日を過ごしました。

さて、ある日の事。
娘が機(はた)をおりたいから、糸を買ってくださいと頼みました。おじいさんが糸を買ってくると、娘は機(はた)の回りにびょうぶを立てて、
「機をおりあげるまで、決してのぞかないでください」と、言って、機をおり始めました。キコバタトン、キコバタトン。娘が機をおって、三日がたちました。ようやく機をおり終えた娘は、
「おじいさま、おばあさま、この綾錦(あやにしき→美しい布の事)を町へ売りに行って、帰りにはまた、糸を買って来て下さい」と、娘は空の雲の様に軽い、美しいおり物を二人に見せました。「これは、素晴らしい」 おじいさんが町へ売りに行くと、それを殿さまが高い値段で買ってくれました。おじいさんは喜んで、糸を買って帰りました。すると娘はまた、機(はた)をおり始めました。
「ねえ、おじいさん。あの娘はいったいどうして、あんな見事な布をおるのでしょうね。・・・ほんの少し、のぞいてみましょう」
 おばあさんがびょうぶのすきまからのぞいてみると、そこに娘はいなくて、やせこけた一羽のツルが長いくちばしで自分の羽毛(うもう)を引き抜いては、糸にはさんで機をおっていたのです

                          

「おじいさん、おじいさんやおどろいたおばあさんは、おじいさんにこの事を話しました。
 キコバタトン、キコバタトン・・・。
 機の音が止んで、前よりもやせ細った娘が布をかかえて出てきました。
「おじいさま、おばあさま。もう、隠していても仕方ありませんね。
 わたしは、いつか助けられたツルでございます。
 ご恩をお返ししたいと思って娘になってまいりました。
 けれど、もうお別れでございます。
 どうぞ、いつまでもおたっしゃでいてくださいませ」
 そう言ったかと思うと、おじいさんとおばあさんが止めるのも聞かず、たちまち一羽のツルになって空へ舞い上がりました。
 そして家の上を、三ベん回って、
「カウ、カウ、カウ」
と、鳴きながら、山の向こうへ飛んで行ってしまいました。
「ツルや。いや、娘や。どうかお前も、たっしゃでいておくれ。・・・今まで、ありがとう」
 おじいさんとおばあさんは、いつまでもいつまでもツルを見送りました。

さて、みなさんから「この話は今日の説教とどう関係するのでしょうと質問されるかもしれません。これはこじつけのように思われるかもしれませんが、日本の民話の終わり、最後の締めくくりが、いつも何となく、喜びと悲しさが入り混じった感じであるということです。

しかし、これらの民話が教えてくれることは、お互いにお互いを大切にしなさい。困っている人を助けなさい、親切にもてなしなさい。お互いに泣きなさい、お互いに喜びなさいということではないでしょうか。

何か今日の説教が本意からそれてしまっていると指摘されても当然ですが、私の思いは来週迎える感謝祭の思いが、福音書の最後の2枚の小銭、それも、自分のすべて持っていたものを神様にささげた婦人の話と鶴の恩返しという話で私の心を捉えたからです。

祈りましょう。

父なる神様、どうか私たち一人一人の上に、あなたの哀れみと祝福を与えてください。私たちにとって一番大切なことは、あなたについてゆき、あなたから祝福されることです。しかし、同じように私たちが、お互いを助け合うことが大切な役目であること、それをすることによって神様を賛美できるような純情な心を私たちの中で育ててください。この祈りを主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

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