April 11th, 2011

四旬節第5主日礼拝説教「ラザロの死と復活」“Death and Resurrection of Lazarus” 岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

私達の父なる主イエス・キリストより恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。

今日の与えられた福音書の日課は44節にわたる長い話でしたが、この礼拝のすぐ後に行なわれる静子Genewichさんのメモリアル・サービスを考えると、神様はこの日に素晴らしい福音を皆さんに送って下さったと思います。

信仰生活の長いクリスチャンは、このラザロの死についての話しを何十回も聞いているはずです。ラザロと彼の姉妹のマルタ、マリアはベタニアというエルサレムから2マイルとそんなに遠くない町に住んでいました。ラザロがどんな職業についていたか福音書には書いてありませんが、多分このベタニアで地位も名前を知られていた人だと思います。 

あるいはこれは推測ですが、ベタニアはイエス様の生まれたベツレヘムからも近くその距離は2マイルです。イエス様は育ったナザレの町から毎年過ぎ越しの祭りにエルサレムまで来ていたわけですから或はイエス様とラザロは昔から知り合いであったかもしれません。ラザロの妹のマリアは主に香油を塗り、自分の髪の毛で主の足を拭いた女と今日の福音書で書いてあります。

イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後12人の弟子を連れてイスラエルの国中で神の国の福音を宣べ伝えたことは4つの福音書を読んでわかりますが、この神の国の伝道をするために費用がかかったのは確かです。それを支えていた人たちが実際いたのです。その多くは女性だったと知ってますか?聖書学者の多くはマグダラのマリアはイエス様の伝道に掛かる費用を自分からも、色々な所からも調達した人だったと言っています。

それに叉、福音書には名前しか知らない多くの女性の名が出てきます。特にイエス様がゴルゴダの丘で十字架に架かった時、十字架の下に集まった女性たち、叉、イエス様が死んでお墓に納められた3日後に香料を持ってきたのは全て女の人でした。全てのこれらの女の人の名前は福音書には書いてありません。これもまた私一人の推測ですが、そこにベタニアのマルタ、マリアもいたのではないでしょうか?

ここで知って欲しい大切なことは、ラザロ、マルタ、マリアはイエス様を愛していた、叉イエス様も彼らを愛していたということです。ですからラザロが重い病気にかかり、これは死を招くような病気だと判断したラザロの姉妹はイエス様に使いをよこし、「イエス様ラザロのもとにすぐ帰って来てください、彼を病気から癒してください」と切望したのです。それなのにイエス様はその場にまだ2日滞在し、その後やっと弟子たちにもう一度ユダヤのラザロのところに行こうと言ったのです。イエス様がラザロの所に着いた時はすでにラザロが死んで4日目です。もう墓に収められていました。悲しみに耽っていたマルタとマリアをを想像してください。最初にイエス様に出会ったのはマルタです。イエス様が来られたと聞いて、イエス様のところまで行き言いました。「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。然し、あなたがどんなことをお願いになっても、神様はかなえてくださる事を、私は今でも存じています」。妹のマリアもその後、イエス様に対面した時、同じ言葉をイエス様に言いました。「あなたがどんなことをお願いになっても、神様はかなえている事を、私は今でも存じています」。

私は去年の6月に父を亡くしました。その時が来ることは分かっていました。2年もの間、口から食べることの出来なくなった父はおなかにチューブを差し込まれEnsure というミルクシェキだけでかろうじて生きていたのですが、お葬式にやせ果てた顔の父を見て涙が止まらなかった。イエス様も友達のラザロの死を目の前にして、いや、姉妹もそこに集まった人たちが泣いているのを見て涙を流されたのです。

「イエス様は涙を流された」 英語では、  “Jesus wept”  という聖書の中で一番短い言葉の中にイエス様の私たち、人間に対しての深い思いが言い表されているのです。私たちが悲しみの中で泣く時にイエス様、神様は共にいて私達と一緒にに泣いて下さるのです。イエス様が泣いているのを見たユダヤ人たちは言いました。「ああ、なんと彼を愛しておられたことか。然し、あの盲人の目を開けたこの人でも、ラザロを死なせないようにできなかったのか」。イエス様は言いました。「石をとりのぞけなさい」。それに対してのマルタの言葉、「主よ、もう臭くなっています。四日もたっていますから」。ここでマルタはイエス様が神様から出てきた者、全能の神から来たもの、それをまだ把握していなかったのです。

イエス様を信じますとついさっきまで言ったマルタ。そのマルタ、でも、それはマルタだけではない、イエス様に従って生きてゆこうと決意した私たち全てに、イエスは言いました。「もし信じるなら、神の栄光を見るであろうと言ったではないか」と。この話しのクライマックスは「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばれたイエスの言葉、そしてそこで起こった奇跡。死人が甦ったのです。

人生の中でどんな苦しいこと、悲しいことを経験しない人間は一人もいません。しかし、神様は、そのような試練に出会う私たちに人生の生き方、悲しみを喜びに変えることのできる力をイエス様を主と信じる信仰によって与えて下さっているのです。

今日の礼拝の後すぐ始めるメモリアル・サービスは私たちの友達、いやそれだけではない、信仰の友であった静子さんを偲ぶと共に、静子さんはすでにイエス様の元にいらっしゃることを確認する時です。

神様の元に帰る、それは天地の創造者のもとに帰ることです。私達の神様、イエス様は、「あなたは素晴らしい人間として人生を送りましたね。もっとも、あなたには人生で辛い時もあった。悲しい時もあった、喧嘩した時もあった。私にくってかかってきた時もあった。私があなたと共にいないのは何故かと問われたこともあった。デモね、これだけは知ってください。私はあなたを見放したことは一度も無かった」と。

私達の人生で、神様と顔と顔を合わして出会った経験をした人はいるでしょうか?。然し神様を心の中で感じた人、経験した人は沢山いるはずです。私たち一人ひとりはただ偶然に此の世に生まれたのではないのです。私たち一人ひとりは神様の計画の中で此の世に生まれ、此の世に色々な形で貢献しているのです。人生の中で神様から愛されていると信じることのできる人たちは幸いです。というのは神様から愛されていると信じる私たちはただ単に神様の愛を受け取るだけではなく、その神様の愛を人と人の付き合いの中で実行して生きてゆくことを人生の一番大切な事と信じることが出来るからです。それこそキリスト教の真髄です。

神様の恵みと平安が何時もあなた方と共にあるように祈ります。アーメン。

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