「疑いから信仰に、不安から平安に」私たちの主であるイエス・キリストより祝福と平安があなた方の上にあるように。アーメン。今、私が聖書の中の人物の名前を言います、そうしたら皆さんにその人達をよく表している最初の言葉を出してみてください。たとえば、ノアの箱舟、ユダの裏切り、パウロの回心、モーセの十戒、そして今日の主人公、それはトマスの疑いです。あるいは疑いのトマスです。英語で彼のニックネームはDoubting Thomas です。このトマスはマタイ、マルコ、ルカによる福音書ではただイエス様の弟子として名前が書かれているだけです。ヨハネの福音書はトマスについて書いてありますが、それも彼について3回だけです。一回目はイエス様が友達のラザロが死んだことを弟子たちに伝え、死んだラザロの所に行こうと言ったその時に、イエス様に返した「私たち行って、先生と一緒に死のうではないか」と言ったのはトマスです。イエス様はユダヤ教の祭司、叉律法学者に嫌われていました。イエス様は人への偏見を許さなかったからです。そして、世間で見放されている人たちをこよなく愛した人です。ですからイエス様のイスラエルの宗教を司る人たちと何時も衝突していました。2回目にトマスがヨハネの福音書に登場するのは今日の福音書の箇所で、他の弟子たちは前日甦られたイエス様に出会っていましたが、そこにいなかったトマスはその翌日、「私は、その手に釘のあとを見、私の指をその釘の跡に差し入れ、叉、私の手をその脇に差し入れてみなければ、決して信じない」と言ったのです。3回目、これが最後ですが、トマスが福音書出てくるのはイエスさまが復活後に、ガリラヤ湖で漁師の仕事に帰っていた7人の弟子たちに神の国の到来を全ての人々に宣べ告げなさいと宣教師としてのは働きを生涯の仕事として祝福された時です。イエス様の選ばれた12人の弟子は皆それぞれに個性があり性格も一人ひとり違います。しかしイエス様に従って生きようとする私たちにも共通して言えることは私たちは神様が本当に何時も私と共にいてくださり、私を愛してくださっていると強く確信する時もあれば、私は神様の愛をいただく価値のない者、惨めな人間ですと感じる時も沢山あるのです。私は、時には、自分が愛されるべきでない人間であると知っているからこそ、神様の赦しと哀れみを求めるのです。イエス様がトマスに言いました。「私の釘による傷跡を見なさい。それによってあなたは私を信じることができる」と。イエス様は私たちの受けるべき罪の重荷を背負って私たちの代わりに死んでくださったのです。しかしイエス様を信じる私たちの手と心にも目には見えない傷跡があるのです。それは傷跡と言うより、他人を助けたしるしです。他人を許した証拠です。他人を愛した、大切にした神様から戴いた思いやりのサインです。ある人がイエス様に従って生きている証拠はイエス様が私たちの求めた隣人との関係、それは困っている人を助けること、過去の罪を許してあげること、それ以上に、自分の罪をも告白することです。心から自分の行いを反省して、へりくだって神様に許しを求める時、神様の愛を求める時、神様は必ず私たちの祈りを聞いてくださいます。トマスの言葉をパラフレイズして言うならば、「わたしはイエス様の手と脇の傷跡を見なくては、そこに私が指で触らなければ私はそこにいる方が本当に生き返ったイエス様とは信じない。」イエス様のほかの弟子たちはイエス様の復活した日曜日の夕方、イエス様が復活されたということはマグダラのマリアから聞いていたのです。しかし、其れが本当ならば、イエス様が十字架に架かった時、ヨハネを除いては、自分たちもイエスの弟子であったということで、捕まえられ、鞭打たれ、最後には投獄され、処刑されてしまうに違いないとの恐怖に駆られていたのです。でもそれは私たちの姿ではないでしょうか。もし私たち一人ひとりがトマスであったら、他の弟子の言った言葉、「私たちは復活のイエス様に出会った」と聞いてそれが本当かとすぐ信じられたでしょうか?日曜日の礼拝の中で、毎週わたし達は使徒信条という言葉を一緒に告白します。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず・・・・我は聖霊を信ず、聖なるキリスト教会、聖徒の交わり、罪の許し、からだの甦り、永遠の命を信ず」。この使徒信条はイエス様こそ私たちの神様であると言うステートメントです。私はイエス様と顔と顔を合わせて出会ったことはありません。イエス様の声も聞いたことがありません。しかしイエス様は私の心に存在しているのです。イエス様は聖書の言葉を読む時、あるいは皆さんと信仰の喜びを分ち合う所で、私に、叉私たちに話しかけてくださっているのです。もしあなたが自分の健康について質問がある時、どこに行きますか?それは、お医者さんです。若しあなたが、水道、またはガスの修繕をしなければならない時、だれを呼びますか?それはプラマーです。若しあなたが、あなたの信仰について質問があるとしたら何処に行きますか? それは教会の牧師、教会学校の先生、あるいはBible Classではないでしょうか。コンピューターの前に座って、あなたの信仰の問題を或るいはYahooに質問することも出来るかもしれない。それに対してコンピューターは答えを与えてくれるかもしれない。しかしコンピューターは心と心の対話の中での答えは与えてくれません。信仰の問題について答えを聞きたいならば、私の答えは、神様に直接祈りの中で質問するのが一番です。答えがすぐに出てこないかもしれない。神様は瞬間的な答えをくれないかもしれない。しかし神様は信頼するものに必ず答えを与えてくださいます。説教の中で信仰について聴くことができるかもしれない。あるいはイエス様の下さった聖餐の儀式の中でイエス様の聖霊にふれ、聖霊によってあなたの信仰の中での質問の答えが与えられることもあるのです。今日のトマスの話の中で知って欲しいのは私たちの疑問、疑いを私たちの知識、経験によって解決することは出来ないと言うことです。人と人の交わりの中で、特にイエス様を主と認め、イエス様に従う信仰を持つ仲間の中で、祈りの中で、叉一緒に神様の言葉、聖書を読んでゆく所で、聖霊によって答えが与えられるのです。一人で聖書を読んでゆく事は大切です。しかし、仲間の人たちと一緒に聖書を読むのも大切です。お互いの経験、お互いの信仰を心から分かち合うことにより私たちは主の愛と平安を経験するのです。祈りましょう。