May 8th, 2011

2011年5月8日復活後第2主日聖餐礼拝説教「地震、竜巻、火事、親父」”Earthquake, Tornado, Fire and Father”岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

ルカによる福音書24章13-35節

「地震、竜巻、火事、親父(おやじ)」 “Earthquake, Tornado, Fire and Father”

私たちの父なる神、主イエス・キリストから恵みと平安があなた方の上にあるように。

アーメン。

先週の初め、娘は大学時代の友だち、今アラバマに住むJessica から電話で今までになかった、カテゴリー5の竜巻がバーミンガムを襲い、200人近い死傷者と千軒以上の家を崩壊したことを知らされました。Jessica の家はたいした被害はなかったのですが、彼女のおじさん、おばあさんの家は土台を残しただけで、家も、車も、大木もすっかり飛び去られてしまったのです。Jessicaのおじいさん、おばあさんは警報が鳴ったとき、家の中に在る物を、一つも持ち出す時間もなかった、ただ急いで車で逃げ出したのです。命は時の思い出の記録が一瞬のうちに消え去ってしまったのです。

叉テキサス州の北で何週間も前えより火事が始まり、その大きさはアメリカのNew Jersey州以上の大きさに拡大しました。これはLos Angeles, Orange County, Inland County を合わせた以上の大きさで、Dallas, Fort Worth に住む人たちも非常に心配でたまらなかったのです。

災害と言えば、繰り返し、繰り返し見てきた、東日本を襲った地震の恐ろしさ、また津波の驚くほどの破壊力を見て、千年に一度の大きさの地震には言葉もで出ません。放射能の問題もまだ長く続くでしょう。私たちは日本がこの経験から学んだことにより何よりも精神的に立ち上がってくれることを望みます。精神的に立ち直ることは全て他のことも正しく改善されてゆくことだと信じます。

このような災害を考えているうちに、ふと頭に浮かんだ言葉が「地震、雷、火事、親父(おやじ)」です。私たちの恐れているもの、それは世界の色々な処に住んでいる人達にとっても同じだと思います。どの宗教も私たちの人生の中で恐れと救いについて教えています。私はクリスチャンですが、他の人が持っている信仰を云々言うのは好みません。と言うのは、信仰を生み出す世界の宗教の中に、私たちにまだ分からない力、それは、哀れみと言うか、癒しと言うか、許しというか、慰めと言うか、救いと言うか、人間だけにしか分からない霊的な力がそこに見出されるからです。私の両親は父の両親と共に住んだ一軒2世帯の中で育ちましたから仏壇も毎日見ていました。そこにお線香を炊いて両手を合わせて南無妙法連華経と祈る祖父と祖母を見ていましたし、お盆の時には胡瓜や茄子で馬を作り仏様が帰ってきましたと言っていたのをよく覚えています。同じ家に住んでいながら、私の祖父と祖母がキリスト教の信仰を受けとった両親と一度も衝突したことはありませんでした。お互いが、お互いの宗教を認め合っていたからです。

私の思い出の中で両親の夫婦喧嘩はありましたが、それは母がぶつぶつ言っているだけで父は返答したり、手を出すことはしなかった。ただ口を結んでしばらく母のところから離れていた。しかし時間が経つとお母さんも何で喧嘩腰になっていたのか、もうケロットして「ごはんですよ。カレーライスよ。暖かいうちに食べましょう」で万事OK。子供心に、夫婦喧嘩は大変になると思ったことはありません。ですから私も父譲りの穏健型、立野先生から言われた、「ほんわか」さんです。

でも一度だけ父にひっぱたかれたことがあります。それは高校のとき、自分の二階の部屋で隠れてタバコをすってた時、「豊、電話」との父の声、急いで下に降りていって友達と長話し。「なんか煙臭い」と父に言われて二階に飛んでいった。吸っていたタバコが灰皿から机の上に落ち、そこにあった紙切れの中で燃え出していたのです。こいつはやばいと思ったときには父は座布団で机の上の火事をたたいて日を消していました。その時父から出た言葉、それは「馬鹿野郎」です。そしてその後、平手で顔をピンタされました。その時の親父の怖かった顔は忘れません。まさに恐い者は、地震、雷、火事、おやじです。

何か前置きが長くなりましたが今日の福音書に戻りましょう。

今日の福音書は、エルサレムの町からエマオという町にある自分たちの家に帰る途中に出会った、二人の旅人とイエス様との会話です。この二人は過去一週間に渡って起ったイエス様のことを語っていたのです。そこにイエス様が入られて「だれのことを話しているのか」と聞かれたのです。エルサレムはイエス様の十字架による処刑、復活の話しで皆興奮していたはずです。そのことを知らないとはあなただけですよと二人の旅人は言ったのですが、福音書には彼らの目はさえぎられていて、其れがイエスだと分からなかったと書いてあります。

二人の旅人のうち一人はクレオパと言う名の人ですがもう一人の人の名前は出てきません。皆さんのうちこの福音書を何回も読んだ人がいると思いますが、この二人の旅人は二人の男と思っている人たちが多いようです。二人の兄弟、あるいは父親と成人の息子、しかしもう一人の人がクレオパの奥さんであってもいいのではないでしょうか?その夜行き着いたところは彼らの家でした。

旅の中で話されたことを知らないとイエス様は言ってません。イエス様はこの一般の庶民であっただろうクレオパのイエス様に対しての思いに心が弾んだはずです。イエス様自身が旅の中で自分のことを証し始めたのです。勿論その時クレオパも、もう一人の旅人も其れがイエス様だとわかっていなかった。それにしてもこの人は只者ではないと思ったはずです。旧約聖書の預言、叉救い主として来られた、そして復活したイエス様はこれから彼に従う人たちとどのように拘わりがあるのか、二人の胸の中は希望と喜びが強く生まれてきたはずです。さて彼らの家について、イエス様に一泊するようにすすめたのです。イエス様はそれを承知しました。すぐに食事の支度ができ、と言ってもそのころの食事は私たちの一食3千カロリーのものではなく、パンと水、干魚そしてワイン、そんな物だったと思います。3人がテーブルに着くと、イエス様はパンを取り、祝福し賛美の祈りを唱え、それを裂いて二人に渡したのです。イエス様はこの二人と聖餐式をおこなったのです。すると、二人の目が開け、イエス様だとは分かったのですが、その姿は見えなくなったと福音書に書いてあります。私はこの時からこの二人は人生が変わったと信じます。イエス様に出会い、イエス様の聖霊に触れた方の人生は変わるのです。聖餐式で皆さんに言う言葉、それは、「あなたの心の中でイエス様を主と認める者はどうぞ、主の聖餐をお受けください,そこにイエス様がいらっしゃるのです」。「でも先生、私はほかの人から聖餐は洗礼を受けたものだけが受けられる特権と聞いていますが」、と言われるかもしれない。それがその人の想いであるなら洗礼を受けるまでお待ちくださいでいいのです。しかし主の聖餐の主人公はイエス様です。イエス様の恩恵を心の中から求めている人にイエス様がそこにいられることを経験していただきたいのです。これはマジックではありません。神様のギフトです。神様が私達と何時も共にいるよとの約束です。勿論洗礼は大切な儀式です。神様の子どもとして神様の愛を人生の中で実行して生きたい、神様の恵みをほかの人にも分かち合うことのできる私になりたいと言う宣言の儀式です。

私は自分が牧師として神様に仕える者として頂いたことに何時も感謝しています。また、聖餐式の中で私たちの罪の為に死んでくださった神様を覚えます。どんな罪でも神様は許してくださるのです。そこで、重い心から開放されます。感謝の心が育ちます。同時に、全ての人のすばらしい所が見えてきます。お互いに許しあう思いが必ず生まれます。其れがキリスト教の精神です。一言で言うならば神様を愛し愛される精神です。今私がここに立って皆さんの顔を見ている時、あなた一人ひとりの中に甦りのイエス様を見出すことができます。「でも先生、人間は所詮、罪人でしょ。何故私たちの中に神様を見るなんて言えるのですか?」と言われるかもしれない。理屈ではないんです。私は神様から愛されていると信じられる人は幸福なんです。神様の顔の中にあなたの顔があるのですから。

最後に一言。地震、竜巻、火事、親父の親父とはどういうことですか?親父は怖い存在のようですが、私にとって私の親父の存在は私の心のよりどころでした。母がそうではなかったと言う訳ではありまん。しかし父は私が何も言わなくても私の思いが何時も分かっていた人、私に失敗することを心配しないでいいよ。それ以上に可愛い子には旅をさせろ、自分で自分の道を開きなさいと励ましてくれたのです。そして私も二人の子どもの親父です。親父でもお袋でもいい。私たちがイエス様に従って生きる生き様を自分の子どもだけでなく全ての人に見てほしい、そんな自分を神様に支えられて生きて行く私たちになろうではありませんか?アーメン

 

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