主のみ心がおひとりおひとりにやどりますように。
2月26日(日) マタイ17:1-9
主の変容の様子をいまいちど読んでいかがだろうか? 最初に「六日の後」と書いてあるが、六日前になにがおこったのか? マタイ16章の最後を読んでいただくとわかるが、イエスがご自分の死と復活を予告された。 そして与えられた福音書箇所の最後でも「人の子が死者の中から復活するまで今見たことを話さないように」とイエスは言われている。 主の変容、光輝かしき姿の前後が、受難・死そして復活の予告でサンドイッチされていることを興味深く思うのは、私だけだろうか? とくにこの四旬節(受難節)のはじまりにこの箇所を読む意味は深いと感じる。
3月1日(水) マタイ6:1-6, 16-21
灰の水曜日の福音書箇所を読んでおきたい。先週の土曜の家庭集会では、第二次世界大戦中にユダヤ人に命のビザを発行した杉原千畝さんのことを学んだ。 杉原氏は生前には「自分のしたことは新聞などで報道されるようなことではない。」と言われていたようだ。 杉原氏が洗礼を受けた東京復活大聖堂(ニコライ堂)の司祭はマタイ6章3節の言葉を引用して、杉原氏の信仰者としての生き様を語っていた。 杉原氏の行動を、あえて報道するとしたら、次のように報道すれば、杉原氏にも喜んでいただけたのではないだろうか。 「洗礼を受けた杉原氏に、三位一体の神が宿り、その神がユダヤ人への命のビザを発行した。」そして、その報道を知った人々が杉原氏ではなく神を褒め称える。
3月5日(日) マタイ4:1-11
四旬節の第一主日は、例年、イエスの荒れ野での出来事について読まれる。 「悪魔から誘惑を受けるために、”霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」とあるが、少々というか、かなり理解に苦しむ表現かもしれない。 しかし、比喩であり、私たち、神の創造された存在としてこの四旬節をどう過ごすかの大きな指針が示唆されていると思う。「悪魔からの誘惑」というのは、自分を神の思いとは逆の方向に仕向けるようなこと。 「”霊”に導かれて荒れ野に行く」という行為は、洗礼を受けたキリスト者として、キリストの思いが自分の心に宿ってくださっていることを確信し、自分自身を誘惑の中においても、神の思いに従った行動・言動をとれるように訓練する。
3月2日(木) ヨナ3:1-10
ヨナが神の思いから離れて自分勝手な行動をとっていた人々の都、ニネベに遣わされ、「四十日で都が滅びる。」という預言を語る。 すると、ニネベの人々は、断食して、悔い改め、神との関係を回復する。 断食という行為は、イスラム教でも、ユダヤ教でも、あるいは「物忌み」という言葉が日本語ではあるが、宗教の種類を問わず、神との関係を回復するための一方法なのだと思う。 極端な断食をすることは勧めないが、なんらかの断食・我慢などをする中で、神との関係を深め、また周囲の人々とも、良き関係を築くことができますように
困難を覚えている方々に、主の癒し、励み、愛が届きますように。日曜の礼拝に集う機会が与えられますように。