2017年7月9日 (日) マタイ11:16-19,25-30
28節の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」は日本人がもっとも好む聖書の一節だと聞いた。その前の箇所をよく読むと、イエスがこの言葉を語った対象は当時の宗教指導者たちだったように思う。必死に律法を学び、それを守ることこそ一番大切なこととして信じて生きていこうという当時の指導者に対して、この恵み溢れる愛の言葉が語られたことを覚える。 そして、その言葉を聞く現代を生きる日本人にも、実は当時の宗教指導者たちと同じバックグラウンドがあるのではないだろうか。
2017年7月10日(月) ローマ1:18-25
創造者なるお方をあがめうやまうことの大切さを痛感する。とくに25節まで読んで。「てんとうさまをおそれ、これをうやまい、そのこころにしたがふべし。ただし、ここにいふてんとうさまとは、にちりんのことにはあらず。西洋のことばにてごっど(GOD)といひ、にほんのことばにほんやくすれば、ぞうぶつしゃ(造物者)というものなり。」 という言葉をもって、自分の子供たちに教えた福沢諭吉のことを思い出した。
2017年7月15日(土) イザヤ52:1-6
やはり創造者にちなんだ箇所といえるだろう。6節の言葉に、イザヤに下った主の言葉として「わたしはここにある。」という言葉に大きな意味を感じている。 モーセが神に向かって、名前を聞いた場面があったと思うが、神の返答は「わたしはある、という者だと述べていた。
2017年7月16 日 マタイ13:1-9, 18-23
有名な「種を蒔く人」のたとえ。今回この箇所を読む中で、聖書日課では飛ばされている10節の言葉が気になった。弟子たちがイエスに近寄って、なぜ、あの人たち(律法を重んじる宗教指導者たち)にはたとえを用いて話すのか。という質問をしている。だから最初にイエスが「種を蒔く人」のたとえを話している相手は、やはりイエスに反対する宗教指導者に対してであることがわかる。このたとえには、どんな劣悪な環境にあろうが、主の福音伝道の力づよさ、すばらしさ、が語られているように思えてくる。