September 15th, 2017

今週の聖書観想

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9月10日(日) マタイ18:15-20
短い箇所だが、実にいろいろ書いてある。一箇所に焦点をしぼるなら、「地上でつなぐことは、天上でもつながれ、地上で解くことは天上でも解かれる。」とはいったい何のことを言っているのだろうか? 私には、地上で関係づけたことは天国でもそうなるし、地上で解釈したことが天国でもそうなる。 つまり地上と天国が直結しているような気がしてくる。 このようなことを主なるイエスから言われることは、地上での行動や言動が、天国からも丸見えなんですよ、と言われているような気がしてくる。「行動言動が天国の主に喜ばれるものであるように、また主に喜ばれないことはしないように!」そんなことをいわれても、何が主に喜ばれて喜ばれないのか、この世の行動は実に多岐にわたっていて判断に難しいことがたくさんある。 そこで、19節の後半、20節にあるように、ひとりで行動を決めずに、二人で祈る、あるいは三人で祈って、そこにいっしょにいるイエスとともに行動することが大切なのではないだろうか。 

9月12日(火)ローマ14:13-15:2
ローマの信徒への手紙というと、5章から8章にすばらしい福音が書かれている。また9-11章にユダヤ人と異邦人のこと。12章から15章前半は、イエスを信じるようになった者が、いかに変えられ、どのような行動指針に沿って行動するかが書かれているように思う。与えられた14章13節から15章2節をじっくり読むとき、私たちは神をどこかに置き去りにして、あたかも自分たちに神の権限があるような行動をしてはならないし、また弱い立場におかれている隣人が喜ぶ行動、それが神を喜ばせる行動であると思えてくる。 マタイ25章で、イエスが「このもっとも小さき者のためにあなたがしてくれたことは私にしてくれた事なのだ。」という話をされた箇所とも強く関係がある箇所のように思う。

9月16日(土) 創世記45:1-20
今週の木曜からの旧約聖書は、聖日の第一日課も含めて、来週の水曜日まで、創世記37章以降のヨセフ物語のハイライト箇所を読むといっても良いかと思う。 ヨセフの中にイエスが暗示されているような面を私は感じている。 兄弟たちにエジプトに売られてしまったヨセフではあったが、決して兄弟たちを責めるのではなく、「わたしをここへ(エジプトへ)遣わしたのは神です。」といって、兄弟たちを赦している。弟子たちにイエスは見放され、さらにユダヤ人も異邦人もいっしょになって、イエスを十字架に架けて殺してしまったが、神によって復活したイエスは、弟子たちも人類も決して責めることなく、「あなたがたに平和があるように」と言われる、そのようなイエスにヨセフが重なってくるような面がある。

9月17日(日)マタイ18:21-35
主君には膨大な借金を帳消しにされた家来なのに、仲間の家来には小額の借金をも厳しくとりたてようとした家来の話。これはあくまでたとえ話である。借金とは私たちが背負う人生の困難とか重荷といったらよいだろうか。家来たちは私たち人間で、主君は神様。 神は私たちの重荷を本当によくご存知で、その重荷をいっしょに背負ってくださり、さらにすっかりとりさることすらされる。わたしたちの罪、恥、友人を許せない怒り等の重荷ゆえに、イエスも十字架を担ぎ、辱められ、そして、罪を帰せられた。 そして殺され、地獄まですら行かれる。そして復活された。それは、私たちへの愛ゆえに、われわれの重荷をとりのぞいてくださる。 そこまでしていただいているのだから、私たちは、重荷を負っている隣人に対して、このたとえ話にあるような家来のような付き合い方は禁じ手ともいうべきか。

日本ではミサイルが上空を通過したかと思えば、今度は台風が通過しようとしている。まったく関係がなさそうで、なにか関係があるような気もしてくる。北朝鮮の隣人、また同じ国内の隣人とどうつきあうか。

復活ルーテル教会において、日曜日の召天者記念礼拝に向けて、さまざまな準備が整い、主の憐れみが豊かに注がれますように!

恵みと平安
安達均

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