「聖霊に満ちた人生」 “Life filled with the Holy Spirit”
私たちの父である神と主イエス・キリストから恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン
皆さんのうちに色々な特技を持っている人がいます。短歌の上手な人、お花、お茶、料理、習字、着物の着付けの専門家もいます。私の特技は水の中にもぐり3分間、息を止めることです。小学校の時から夏の体育のクラスは水泳でしたが、25メーターのプールの底を潜水してゆっくり泳いでいると、そこで生きているのか、溺れているのか心配された先生に何時も叱られました。家内のナンシーも今でもプールの底でじっとしている私を見つけると, “Are you alive or dead. Stop doing this stupid act” と怒鳴られます。勿論自分で限度は知ってますから一度も気を失ったことはありません。
わたし達は何時も息をしている、空気の中にある酸素を肺に入れることができるから生きていけるのです。赤ちゃんが生まれて最初にすることは自分で息をすることです。お母さんに臍の緒で結ばれていた時は息はしていなかった、しかし生まれてはじめてこれから生きるために息をする。泣くことによってそれが始まり、人生の終わりまでひと時も休むことなく、続くのです。息をするという大切さを考えてみたいのですが、まず今日は聖霊降臨祭、英語ではPentecost と呼ばれる日のことをお話ししましょう。イエス様が十字架に架かってなくなった Good Friday から3日経ってイエス様は復活されました。復活されたイエス様は弟子たちと、またイエス様を慕う人たちと40日間一緒にいたのですが、天に戻り、復活後50日目に神様の聖霊としてイエス様の弟子、イエス様は神様から送られた救い主と信じて集まっていた人たちの上に留まったのです。
その聖霊の現れ方は今日の使徒言行録と福音書の中でとても違う形で来たのです。使徒言行録の記事によると聖霊はイエス様と集まっていた大勢の人たちに激しい風が吹いてくるようなような音、そして炎のような舌が一人ひとりの上にとどまったと書いてあります。その一方、12弟子たちが始めに聖霊を受けたのは、甦ったイエス様がドアの鍵を閉めて不安におののいていた弟子たちの所にすっと入って来て、釘のあとがある手とわき腹を見せた時です。彼らに息を吹きかけて言われたのです。「聖霊を受けなさい」と。
私が新しい教会伝道を始めたテキサス州の南ダラスには聖霊派の教会がたくさんありました。それは英語でPentecostal Church と言われています。 これらの教会は,はじめから終わりまで、礼拝の中で座っているというよりも、立っている、そして両手を高く上げて神様を賛美する、またそこでは、言葉にならない口から出る異言が話されています。そして異言を語りながら礼拝堂の中でまさに踊りだすような人たちもいます。どうしてこのような形で礼拝が行なわれるのかと聞いたところ、それは聖霊が一人ひとりに降りてきたからだといわれました。そこの教会の人たちは、毎週、毎週、聖霊によって踊りだす、異言を語る、それこそが本当の礼拝の形だと言うのです。私はそれがよくないといっているのではありません。教会によって礼拝の仕方は違います。しかし私たちの多くは聖霊を心の中で何か私たちを動かすものと感じる、そこでまた、涙、それも、悲しい涙ではなく、神様、ありがとうという形での涙で現れるのではないでしょうか。
皆さんから岸野先生、あなたは涙もろい人ですねといわれますが、これは聖霊によって私の心が動かされる時に起こるのです。神様の聖霊に触れる時、私は心が和らぎ、涙が出てしまうのです。ですから「先生、皆さんの前で泣かないように」といわれてもそれが守られないのです。
先に聖霊は息という形として現れるといいましたが、息と言う言葉は聖書の中で何回も見い出されます。聖書の一番最初の創世記の2章に神様は土それはヘブル語でアダマによってアダムを形作り、その鼻に息を吹き入れられたと書いてあります。へブル語で息は「ルアーハ」と発音されます。この言葉を皆さん口に出して言ってみてください。「ルアーハ」です。この言葉自身が何かを投げ込むような感じの言葉ではないでしょうか?息は前にも言ったようになくてはならないものでそれはSpirit,聖霊とも訳されるのですから聖書の中で人間とは聖霊を与えられる者と考えてもいいでしょう。
さて、今日の旧約聖書の日課、エゼキエル書37章は有名な枯れた骨の復活の話しです。預言者エゼキエルは、主の霊によって連れ出され、ある谷間の真ん中に降ろされ、そこに骨をいっぱい見出したのです。。主はエゼキエルに言いました。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。私はお前たちの中に霊を吹き込む」。するとお前たちは生き返る。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。この話の中でも、霊と息とが一つになって神様からいただいく命となるのです。
Elton John という有名なイギリス人の歌手を知っていますか?この人はプリンセス。ダイアナのお葬式の時ソロで歌った人ですが、彼は幾つもの素晴らしい歌を自分で作曲し、歌っています。その中に私の大好きな歌、 “Something about the way you look tonight” の歌詞を紹介しましょう。 “I need to tell you how you light up every second on the day. But in the moon light you just shine like a beacon on the bay. And I can’t explain, but it’s something about the way you look tonight takes my breath away.”
“Take my breath away” とは日本語でどう訳せるでしょうか? 何か素晴らしい経験をした時、それは富士山の頂上に朝の4時半たどり着いて日の出のご来光を経験した時、自分の子どもが生まれてはじめてその子を腕の中に抱いた時、ボケが進んだお母さんが、私の顔をじっと見つめて、「あんたに会ったことあるよね。でも誰だったけ?ゆうちゃんみたいな顔してるけれど」 それを聞いて嬉しさに泣き出したこともありました。なんと素晴らしいことでしょう。生きていて良かった。神様ありがとうといえる心の感動こそTake my breath away ではないでしょうか?
死んだと思っていたイエス様がイエス様を慕ってきた人たちに現れた、そして私と何時も一緒にいてくださると約束してくださった。叉、決して私たちを見放しませんと約束してくださった。その神様は今ここにいるのです。
ここで今一緒に礼拝をしている皆さん、それは私も含めて、イエス様と呼ばれる神様にしたがって生きることを約束された人たち。まだ全てのことがわかりませんが、私たちを愛してくださる神様のことが少しでもわかるようになりたい。わたしの心の中でイエス様の愛を育てたい。人生もっと他人を大切にして生きてゆけるようにと願っている人たち。それが私たちです。
十字架で死んだイエス様は3日後に甦り、天に昇り、このペンテコステといわれる日に人々に現れました。その後もイエス様は私たちのところに来てくださっているのです。私たちの祈りの中にイエス様はいらっしゃいます。私はこの復活教会にイエス様の聖霊が注がれていると信じます。勿論わたし達は完璧ではありませんが、一人の人が病気の時、気落ちしている時、家族、または友達の中で人間関係に悩む時、どうか心を謙遜にして祈ってください。そこで聖書の中で言われているFruits of Spirit,それは、Love 愛、 Joy 喜び、 Peace 平安、Patience 忍耐、 Kindness 親切さ、 Goodness 善良さ、 Faithfulness 誠実さ、 Gentleness 優しさ、 そして Self-control 自制を私たちの生活の中で実行していけるようイエス様に祈りましょう。
私はこの教会に招聘される前に教会の役員の人に聞かれました。あなたのこの教会でのゴールは何でしょうか?と。それについて私はこう答えました。「この教会が一人ひとりを大切にする所になるよう神様に導かれた教会になることです。」 私たちが他人との関係を神様の霊を持って築く時私たちの救い主、イエス様は神の国を今ここで実現させてくださるのです。アーメン。