December 16th, 2017

今週の聖書観想

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掲載がしばらく滞ってしまいましたが今週の聖書観想をお送りします。

2017年12月10日(日) マルコ1:1-8
あらためてマルコ一章の最初の8節を読みながら、ヨハネはイザヤが「荒れ野で叫ぶ声がする」と預言していた通りに、救い主の道を整えるために遣わされたことを覚える。ヨハネのこの世の一生はイエスと同じ位30歳位で終わるが、今も人々の中に生きていることも覚える。

2017年12月12日(火) 使徒11:1-8
割礼を受けていない、また食べ物の規定を守らない異邦人にも神の愛が注がれ、イエスの言葉を信じるようになった。キリスト教、特にルター派教会で述べ伝えているのは、律法を守ることで義と認められるのではなく、「信仰義認」とよく言われる。しかし、人々が信仰心を持ちさえすれば、という条件により義とされるのか、イエスが人々を徹底的に愛しているというイエスの信仰(faithfulness)があるから人々は義とされるでは、考え方には大きな違いがあるように思う。しかし、その違いが本当に問題なのかというと、神の愛が大きすぎて、とるにたらない問題のようにも思えてくる。 

2017年12月14日(木) ハバクク2:1-5
週の後半の旧約聖書は、三日とも預言者ハバククに幻で示された神の言葉が、対話形式で与えられている。ハバククはイスラエルの民が紀元前6世紀はじめに新バビロニアに完全に征服されてしまう直前に記されたとされている。世の不義がまかり通ってしまうことについてハバククと神との対話が書かれているようだ。「遅くなっても待っておれ。それは必ず来る。遅れることはない。」待降節にあって含蓄ある言葉として響いてくる。

2017年12月17日(日) ヨハネ1:6-8, 19-28
使徒の中でも一番若かったとされるヨハネによる福音書において、洗礼者ヨハネのことが福音書の冒頭に書かれており、いったい使徒のヨハネが自分のことを言っているのか、洗礼者ヨハネのことを言っているのか紛らわしい。しかし、どちらでも良いとも思えてくる。大切なのは、ヨハネが言っているように、イエスのこと、光のこと、神の愛のことなのだから。

礼拝に出られる方々の気持ちはさまざまでも、そのひとりひとりに、全能なる神の愛が豊かに注がれる礼拝になるように、主の導きを祈りつつ。

恵みと平安
安達均

12月3日の週の聖書観想はここをクリックーーー> 2017 12 07 Reflection

11月26日の週の聖書観想はここをクリックーーー>2017 11 30 Reflection

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