July 11th, 2011

2011年7月10日聖霊降臨後第4主日聖餐礼拝説教「わたし達は福音の種を蒔く者」”We are Sowers of the Gospel”岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

    

マタイによる福音書13章1-9、18-23節

「わたし達は福音の種を蒔く者」 “We are sowers of the Gospel ”

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が、あなた方にあるように。アーメン。

私が牧師として始めて招聘を受けたPhiladelphiaの教会は1970年以前は白人の Middle Class の Community でしたが、1980年にアメリカの都会の中で公立のhigh schoolの中で人種差別の問題が出てきた時、法律としてInner city と郊外の学校の生徒をバスによって自分の住む地域の学校以外のところに通わせるという試みが行なわれるようになりました。私の教会はOlney High school  という名の知られていた公立の高校のすぐ近くでこの制度が始まった時以来蜂の巣を棒でつつくような問題がcommunity の中で出てきたのです。ごみが道端に多く捨てられるようになったとか、ギャングの縄張り、ドラック問題、つまり治安が急に乱れてきたといわれるようになったのです。人種差別とはアメリカの社会で今も続いて問題になっていますが、1970年代はノーベル平和賞を受け取ったMartin Luther King を多くの白人の人たちはトラブル・メイカーだと思っていたのです。多くの白人の家族は郊外に移ったのもこの頃です。私は人種差別を撤回しようとの運動を続けたMartin Luther  King を尊敬します。社会の中でMinority と呼ばれている人たちの社会的地位、叉同じ神様のもとで、同じ人間としてのわたし達は全ての差別に反対する義務があります。

さて前置きが長くなりましたが、イエス様も当時イスラエルの世界でトラブル・メイカーとお偉方から批判されていたのです。イエス様は安息日に畑で麦を積んだこと、叉安息日に病人を癒したこと、羊が、崖から落ちそうになっている時それが安息日であったら助けないであろうかと言って律法と戒律を守ることが人生で一番大切なことと信じていたユダヤの宗教リーダーを非難したのです。イエス様がユダヤのリーダーの人たちから攻撃され、それに対して彼らこそ偽善者だと答えたのはイエス様が神様から送られた者で、本当に自分は 神様のみ旨を行なうものとの揺るがぬ確信がありました。しかし、彼に従う弟子たちはイエス様を神の子と信じ、自分の命も惜しまずイエス様の教えに従っていこうと思っていた時もあれば、本当にイエス様は私たちに神様の国をこのユダヤの地で実行されるのだろうかと思ったこともあったでしょう。そんなイエス様の弟子たちの心を読み取ってイエス様は種蒔の譬えを話されたのです。この譬えは最もわたしたちにとっても大切なたとえ話です。

イエス様はお百姓さんが畑に種を蒔きに行った話をしました。この時代、畑は小さかった、そこで種を蒔くのも手の拳で一掴みの種をばら撒いて歩いたのです。ある種は道端に落ち、そこの土は硬く根を出すことができず、結局鳥が来て食べられてしまった。叉ある種は土が少しだけかぶっている岩場に落ちた。根が種から出たのはよかったのですが、その根が伸びることができなかったので、結局熱い岩場で枯れてしまったのです。ある種は茨の中に落ちたのです。そこには土も水気もありましたが、せっかく芽を出した種も茨で囲まれ伸びることが出来なかったのです。

しかし、ある種は良い土の上に落ち、そこで30倍、60倍、100倍以上の収穫を上げたのです。この譬えをイエス様はこのように弟子たちに話したのです。始めに硬い道端に落ちた種について。この種は神様の言葉を聞きますが、その神様の言葉の意味が分からない人たちのこと。種は心の固い人たちのところでは育ちません。心の固い人とは、英語で言えば、 “Those they just don’t get it” or those they don’t even try to get it. です。この人たちは聖書というものを聞いたたことはあるが、関心のない者、神様とは私達にはぜんぜん関係がありませんという人たちです。このような人に出合うと心が沈みます。私達のできることはこの人たちが何時かは神様という方に触れる機会があるようにと祈ることです。

薄い土のかぶった岩場に落ちた種は一生懸命根を出そうとしましたが、岩は太陽の熱で熱くなり、切角でた根もdry up してしまいます。このような人は神様の福音を受け取った人なのですが、時間が経つにつれて聖書も、イエス様もけろっと忘れてしまった人たちです。このような人はイエス様に触れたことはあるのです。教会にも来ていました。しかし、長続きしなかったのです。神様の福音は一時だけのものではありません。私達の人生の始めから終わりまで私達を導いてくださる神様の導きと支えです。

茨の中に落ちた種はこれまでイエス様の言葉を聞き、イエス様に従ってきたのですが、何か他のものに心を引かれるようになった。それはお金持ちになるとか、自分が有名になることが、人生の一番大切なゴールと考えるようになった人のようです。私の知っている牧師さんがこう言いました。「私は一日に300ほどの e-mail を受け取ります。それほど私のアドバイスを聞きたい人がいるとは、私はカウンセラーとしての自分の才能を見直しました。」この人に私は心の中で言いました。「よく言うよ、この先生、自惚れるのもいい加減にしろ」と。

最後にイエス様は幾つかの種は良い土の上に落ちたと書いています。そこで30倍、60倍、100倍の実を結ぶのです。とうもろこしの種を考えてください。家内の実家はペンシルベニアの農業の町にあり、今は美味しいとうもろこしのかき入れの時です。とうもろこしはその実が種なのです。一つのとうもろこしは500ほどの種のついた植物です。収穫されたとうもろこしはお店に並びます。それは食事として使われるのですが、一つのとうもろこしの中の500粒の種が叉来年の春、一粒、一粒、土の中に埋められて一つの茎から6個ほどの新しいとうもろこしができるのです。アメリカ全土のとうもろこしの収穫は世界中のおなかの空いている人の何十年に渡ってやしなう食べ物になるほどの量なのです。物も使いようです。

イエス様が弟子達にこの収穫の話しをした理由は二つあります。私達は私達自身の行動によってまだ神様を知らない人たちに、イエス様こそ私達を愛してくださる、救ってくださる神様ですよと語ってください、導いてください。私達一人ひとりの行動の中で、神様についてゆく清い生活を送ることが、まだイエス様のことを知らない人たちへの伝道の道なのです。

一人でも多くの人がイエス様という神様の人格に触れ、神様の愛を受け入れることができるようになる。その愛を他の人に示してゆく人生が送られるようになる。それが私達に与えられたキリスト者としての使命であり、神の子として生きる喜びであるのです。アーメン。

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