マタイによる福音書13章24-30、36-40節
私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン。
今日の福音書は先週の種蒔きと刈り入れ時の話の続きです。お百姓さんが良い種を畑に蒔きました。しかしその人が眠っている間に、敵が来て麦の中に毒麦の種を蒔いたのです。しばらくすると、麦と毒麦が揃って芽を出しました。毒麦、それは雑草ですが、よく麦と似ている、そこで、畑の仕事を任されていた男は、その毒麦の芽を抜こうとご主人様に申し出たのですが、ご主人は言いました。「一緒に麦と毒麦を収穫の時まで、その儘にしておきなさい。そうしないと、毒麦を取ったつもりで、麦を引き抜いてしまうかもしれない。最後の収穫の時にそれを分けてとりなさい」と。
もし私達が今日の福音書の話しの中にいたとしたら、腐ったりんごはまだ新鮮なりんごから取り除くというように雑草抜きに励んだはずです。しかし、誰か教会に来ている人の中で、この人は教会にくる資格がない、だからその人を追い出そうという動きが出たら、それは教会の中での一番の悲劇です。しかし実際、アメリカのほとんどの教会は50年ほど前まで “Excommunication” という規定がありました。これは教会員として悪い行為をした人、恥ずかしい行為をした人たちをメンバーの席からはずすという規定です。それはどういうことかと言うと、不道徳な行為をした人、警察に捕まるような悪事を起こした人たちに教会から破門状が出されたのです。5年ほど前、あるアジア人の教会では役員会の会長が、6ヶ月の間教会に出席してはいけないという知らせを受けました。なぜかというと、この人の16歳の娘さんがボーイ・フレンドとの間で赤ちゃんを産んでしまった。それは遺憾であると役員会は会長さんと彼の家族に6ヶ月、教会の行事に参加してはいけないとの通告を出したのです。 これはアメリカの植民地時代によくあったことで、教会はモラルに反したことをする人たちを差別、村八分にする、そういう時代があったのです。モラルを守ろうということは教会としてはっきり言っていいのですが、それを守ることのできなかった人にこそ、神様の赦しと助けをあたえるべきと断言します。人間はみな罪人で、神様の赦しを必要としているのです。クリスチャンと呼ばれる私たちは罪を嫌うのですが、所詮、私たちはみな罪人。ですから、神様の許しと愛を必要なのです。
皆さんの中でアミッシュ、あるいは、メノナイトという昔からの習慣を守って今でも17世紀のような農業生活をしているクリスチャンの人たちのことをご存知ですか? 家内のナンシーの実家はペンシルベニアのこの人たちの住んでいる地域から近いところで、本当にこの人たちの生活を観察してみると昔の世界に戻ったような気がします。まず電気が使えません。家の中で夜の生活はろうそくのみです。自動車も使えません。洗濯機も、冷蔵庫も、電気で動かすものは使えません。畑を耕すのも、動物が鋤を引っ張って行われます。男は成人になると髭を生やさなければなりません。女の人は頭の上にボンネットをいつもかぶり、いつも長いスカートで、ズボンをはくことは禁止されています。彼らはPennsylvania Dutchという特別な言葉を話し子供たちは公立の学校には行きません。自分たちだけの学校があり、読み書き、簡単な算数はそこで習いますが、主な教育は聖書を学ぶことです。
ところで、メノナイトというクリスチャンもPennsylvania Dutch の人たちですが、この人たちは、もう少し文明を取り受けて生活をしているクリスチャンの人たちです。家の中では電気は使えない保守的なメノナイトと普通のアメリカ人のように文明を受け止めて生活する進歩的なメノナイトの人たちもいますがアミッシュとメノナイトはもともと同じ血のつながりのある人たちです。しかしこの二つのグループ、アミッシュとメノナイトがあるひとつの決まりのことで分かれていったという、その背景のうらにShunning という習慣があります。これは英語で、 “Social avoidance” と言い、その意味は自分たちのこの非文化的な生き方を出てアメリカの一般の生活の中に入っていく人たちは、一度外の世界に出たら、もう両親、親戚、つまりアミッシュと言うCommunityにもどることができないと言う決まりです。
つい最近、テレビで、若いアミッシュの青年が、大学にいきたいと言うことで自分の家を出た。そしてGEDの資格を取るために勉強している。しかしやはり自分の家族に会いたいと家の門のところまでいった。そこに家族はいるのはわかっているんですが、彼の家族は出てこないのです。家族にとってこの息子は親も兄弟も捨てたものとみなされているのです。なんと切ない気持ちでなきたくなりましたが、この青年は彼の育った社会を捨てたのです。
アミッシュとメノナイトの一番の違いは一度、家族の者が自分たちの社会から出たらアミッシュは、でた人を戻ってきたいと言っても受け取りません。Forever good bye なのです。メノナイトは自分の子供が家の農業を継いでくれることを望みますが、もし子供が、「私は家を出て都会に言って学校、大学にいきたい。」と言ったとしたら、親は悲しむかもしれませんが、その息子を村八分にすることはしないのです。
なぜこの話を紹介したかと言うと、それは教会と言う私たちの信仰の集まりの中でも長い間、あの人は私たちの仲間、でもほかの人は私たちが付き合うべきではない人たち、と言ってイエス様の元でみんながお互いに一つになって愛し、助け合ってゆくべき教会の中で、私たち、あの人たちと言う、イエス様の今日の話にあるWheatとWeed と言う関係を作ってしまうことがあるからです。
聖書の中で、私たちは驚くほど多くの麦と雑草に似た話を読みます。と言うのは、ユダヤ人の位の高い人たちはいつも自分たちは神様から愛されている、神様の戒めを厳重に守っている麦だと信じているのです。その反対に、体の不自由な人、貧乏人、徴税人、のような者たちは、神様から遠い人たち、神様の恵みから離れている雑草だと言うのです.
そのひとつの例をルカによる福音書の18章9節に書かれているもので紹介しましょう。
「自分は正し人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、私は他の人たちのように、奪い取るも者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪びとの私を憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
私たちは誰でも神様に愛され、よい実を結ぶ者になりたいのですが、時には反対のこと、人を裁くこと、いや、裁くと言うより、私はほかの人よりもっと神様に愛される人になりたいと思うことがあります。それは意識的ではないかもしれない。しかし、自分のことが一番大切と思う私たちは神様に誰よりも愛されたいと思うことがあるのです。
ところで、キリストに従う私たちは、裁かれると言うことをあまり気にしないでいいのです。「イエス様私を許してください」と心の中でいえる私たちはすでにイエス様に愛されているのです。ですから、大切なのは私たちがよく口にする、お互いを愛すると言うこと、お互いを大切にすること、思いやりを持って人間関係を結ぶことです。
私たちの教会の群れは小さいものですが、小さいながらお互いを助けながらイエス様にすがりついて生きているのです。
最後に言いますが、私たちは神様から雑草とは呼ばれていません。私たちは神様の愛を栄養に、神様の御心を行う事のできるようなものとなる麦の実であるのです。私たちの神様からいただいている役目は、すべての人に神様の愛を分ち合うことです。私たち人間は愛し、愛されるために生まれてきたのですよと皆さんにその福音を言葉と行いによって示すことです。アーメン。