July 24th, 2011

2011年7月24日聖霊降臨後第6主日聖餐礼拝説教「神様の特別の愛」”God’s Special Love”岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

ローマの信徒への手紙8章26-39

「神様の特別な愛」 
“God’s Special Love”

わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン。

神様はあなたにとって何でしょう、色々な答えがその質問に対して出てくると思いますが、多くの方は神様は愛であると答えるのではないでしょうか? 神様の愛とは私たちにとって計りがたい素晴らしいものです。そこで、今日与えられたローマの信徒への手紙をもとに神様の愛とはどのようなものであるかを4つの話の中で聞いてください。

その前にもう一度今日のローマの信徒への手紙8章の35節から39節を読んでみましょう。だれが、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう? 艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。私たちたちは、あなたのために一日中死にさらされ,屠られる羊のように見られている」と書いてある通りです。しかし、これら全てのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリス・イエスのよって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。

では一番目の話:これは夢の中での話です。皆さん、あなたが神様の裁判所に被告、accusedとして連れてこられたのです。神様はJudge, 裁判長です。そして、サタン、つまり悪魔はあなたの検察官、accuserで, あなたが実際したか、またはしなかったかの罪について裁判を受けているのです。サタンはあなたの罪を目撃した証人を呼んであなたの罪を摘発しました。それを聞いてあなたの心は沈みます。その通り、自分は悪いことをしたと心の中で認めているからです。それは誰かに暴力の手を出したと言うより、誰かの悪口を言った、誰かを仲間はずれにした。親切にしなかった。口もきかなかった。そんなことですが、神様から見ればこれらはすべては罪です。

またそれ以上に検察官はみんなの前で誰かのとったビデオを見せたのです。そのビデオの中でこのあなたが生活に困っている人に出会った時、どうしようかというシーンが出てきました。そして、そのビデオはどうしてか、あなたが心の中で思っていたことが声として出てしまい裁判長にも陪審員にも聞こえてしまったのです。「困っている人はそれは怠慢な人、他人に頼って生きている乞食当然。私にはぜんぜん関係のない、赤の他人」ああ、どうしよう、恥ずかしい、穴があったらそこに入りたいと思っていたその矢先、裁判長は言いました。「これは本当ですか、あなたは隣人を省みなかったと認めますか?」「はい、そのとうりです。何も返答することはありません。私の罪をお許しください」と頭を深く下げたのです。その時、イエス様が夢で現れて宣言なさったのです。「あなたは私を信頼する者。私はあなたの罪の刑を私の十字架の死によってすでに取り去りました」と。先生、これは変な話ですねと言われてしまうかもしれませんが、ポイントは「神様は私たちを愛するが故にイエス様をこの世に送り、私たちの罪を背負って死んでくださったということです。私たちの罪を自分の上に負って死んでくださったイエス様、それはキリスト教の信仰を持たない人には難しい神様の愛の形です。しかしこの愛があってこそ私たちは今ここにイエス様を慕って生きていけるのです。

二番目の話は、ご主人がアル中の奥さんの話です。この奥さん本当にご主人のことで今迄つらい人生を送ってきたのです。しかしある時ご主人、自分の問題に気が付いて奥さんに今までのことを許してくれ、もうこれからはお酒は飲まない、だからセカンド・チャンスをくださいと泣いて語ったのです。奥さん、どうしたらいいのかわからず,牧師さんを訪ねたのです。「先生、私の家族、私の友達は私が主人をそのまま受け入れるなんて、そんなことだめですよと言っているので牧師さんは答えました。「あなたは、まだご主人を愛していますか?」と。「はい、私は主人を愛しています」と奥さんは大きな声で答えました。

その後、牧師さん、こういうガイダンスを奥さんに与えたのです。「奥さん、あなたに覚えておいてほしい事があります。あなたはご主人のjudge裁判官ではありません。ご主人のJury陪審人でもありません。あなたはあくまでもご主人をを愛する奥さんだと言うことを肝に命じてください」と。「そして奥さん、もうひとつ」と牧師さん続けて言いました。「あなたの広い心と愛ですべてを許すという、あなたの寛大さにあなたのご主人は、今までの自分の惨めさで心を痛めるでしょう。ご主人の心の回復はあなたのUnconditional,無条件の愛によってのみ起こるのです」と。

三つ目の話はBetty
Van Dyke さんという人が書いた目の見えない女の子が始めてピエロに出会った時の話です。生まれた時から目が見えなかったこの女の子はピエロと言う人がどんな人か分かるには唯一つのことをしなければならなかったのです。それはピエロに触ることです。

この女の子は両手でピエロの頭を触れ始めたのです。「大きな耳、ボールのような鼻、髪の毛はちょこっとだけ、そしてなんか変な洋服を着ているこの人、なんて変な人なんでしょう」と笑いなら言いました。「なんだか私笑いたくなる、だってピエロさんってとっても変わっているし,声だって普通の人とより子供みたい。ピエロさん、あなたHugしていい?私あなたのお友達になりたいわ」と。この女の子、目でピエロを見えなくても、ピエロさんは子供たちを嬉しくしてくれる人とわかったのです。ピエロさんにHug
して “I love you funny person” と言いました。

この話は私たちが受ける神様の愛を語っているのです。私たちは神様の愛というものが100%はっきりわかりません。しかしイエス様との祈りの中、信頼関係の中に時間が経つ内にそれが分かるようになるのです。コリントの信徒への手紙第一の13章12節の言葉を聞いてください。

「私たちは、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには.そのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は、一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」

本当です。イエス様という神様を通しての愛を今は私たちは完全に分かることが出来ないでしょう。しかしそれが出きるような時がいつか来るのです。今は神様の愛というものを聖書の福音の中、聖餐式と洗礼式、また他の人からの思いやりの中に見出すことができます。ある意味で、私たちは目の見えない女の子がピエロを手で触って「私の前でここにいる人はイエス様です」と言えるかもしれない。しかしそれ以上に、心の中でイエス様と出会う、信仰によってイエス様と顔と顔を合わせて出会う時が来るのです。その時私たちを愛してくださっている神様に愛を持って仕えることが出来るようになるのです。

最後、4っ目の神様の愛とはどのようなものであるかの話はPastor
Valbaracht という人による第二次世界大戦後に経験した話です。

私が兵隊としてアジアに送られた時、娘はまだ生まれて3ヶ月目の赤ちゃんでした。戦場で時々送られた写真で娘の大きくなってゆく様子はわかっていたのですが、娘にとってお父さんの私は箪笥の上にあった写真に過ぎなかったのです。もっとも、これがあなたを愛してるパパなのよと家内は娘にいつも言っていたのですが。しかしお父さんは実際そこにはいないのです。3歳の娘さんがどうしてお父さんの愛を感じることができるでしょうか? 何千マイルも離れて生きている私がどのように娘の愛の対象になるでしょうか? わたしのお父さんは私の家から近くわたしの娘をいつも訪ねていたので、娘はおじいちゃんが大好きでした。お爺ちゃんが、お爺ちゃんとお父さんの二人の役目をしていたのです。しかしそのお爺ちゃんも戦争中に病気で亡くなったのです。

戦争が終わり、3年目に私が家に帰ってきた時、どのように私を受け入れてくれるかの不安がありましたが、娘が、私の顔を見て、「パパ?」と言って私の腕の中に飛び込んでくれた時、私は嬉しくて涙が出てとまらなかったのです。パパとママと娘と一緒に長い間抱き合って泣いてしまいました。嬉し泣きです。

同じようにイエス様は両腕を広げて、彼の胸の中に飛び込んできなさい。私はあなたのお父さんです。そこで私の愛をイエス様の子供である私たちに示しましょう、と言われているのです。

今日の説教は神様の特別な愛を4つの話を持って聞いていただきました。神様の愛は私たちに色々な形でも現れるということを知ってください。そして、どうか皆さん、神様と会話の時、祈りの時を持って毎日を過ごしてください。神様は必ず私たちの中に来てくださるのです。アーメン。

 

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