August 1st, 2011

2011年7月31日聖霊降臨後第7主日聖餐礼拝説教「祈りの時、それは神様と会話する時」”The Time to Talk with God.That’s the Prayer Time”岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

マタイによる福音書14章13-21節

「祈りの時、それは神様と会話する時」“The Time to Talk with God.  That’s the Prayer Time”

今日の福音書は、イエス様の話を聞きたいとイエス様に従ってきた多くの人たちに、5つのパンと2匹の魚を多くに人たちに分け与えた奇跡の話です。ところでこの話の中にどれくらいの人が集まっていたのでしょう。皆さん、もう一度今日の福音書の箇所、それはマタイの14章13節、ページは28ページです。時間を少し上げますから皆さんそのページを開けてください。なんいんとかいてありますか? 5千人でしょうか?本当ですか? では21節を見てください。何とかいてありますか? 「食べた人は、女と子供を別にして、男が5千人ほどであった」と書いてあります。と言うことは、当時のユダヤ人の生活の中で女性と子供は大人の男のような地位がなかったのです。男は家族のために仕事をし、給料を貰って家族を養う者。イエス様の時代には男と女は平等でなかったのです。私の想像ですが、イエス様の話を聞きたいとイエス様の元に来た人たちは女の人、子供も合わせて8千人、9千人位いたのではないでしょうか。そのような数の人たちが食べ物を買いに行ける処もあまりなかったと思います。「腹が減っては戦もできけない」と言う言葉を聴いたことがあります、このイエス様の元に来た人々、疲れて、お腹が空いたと推測します。この福音書には書いてありませんが、ヨハネによる福音書の同じ記事の中では5つのパンと2匹の魚、それはガリラヤ湖名産の燻製の魚を、一少年がイエス様に差し上げたのです。もしかしたらこの少年の両親が、イエス様の偉大なる奇跡の力でこのパンと魚を増やすことができるのではと、少年をイエス様に送ったのでないかと思うのです。さてイエス様はパンと魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちの渡したのです。弟子たちはそのパンを群集に与え、すべての人が食べて満腹した。ついでに福音書は、残ったパンの屑を集めると12の籠いっぱいになったと書いてあります。

この奇跡がどのように行われたのかといろいろ討論されていますが、ある人はこう言います。イエス様の話を聴きに来た人の中には何か食べ物を持っていた人はいただろう。旅をするのに食べ物を持っていない人があろうか。しかし実際食物を持っていなかった人もいただろう。そこでイエス様がお話になる前、5つのパンと2匹の魚を分け与えたのを見た群集は心を動かされて自分たちの持っていたお弁当をおたがいに分かち与えたのではないだろうか。目のまん前で、お父さん、お母さんと小さな息子が指をくわえて私のお弁当を見つめていたらどうしたでしょう。私、またわたし達の多くは、食べ物のない人の前でそれを分けてあげようと言う気持ちになるはずです。それが人間の思いやりの気持ちであったなら、お弁当を持っていた人達は、食べ物を持っていない人に少しでも分け与えたはずです。もっとも,イエス様は奇跡で5つのパンと2匹の魚を人々が受け取るにあたってそれが増えていったと考えてもいいのです。イエス様は5つの大きな瓶の中の水をワインに変えられた方ですから食べ物の奇跡もあって当然です。

これは少し脱線しての話ですが、私が子供のころ家族で、デパートに行き、お腹が空いたときによくデパートにあった食堂で、食券を買って丸い10ほどの席のあるテ-ブルで五目ラーメンとかトンカツ・カレーを食べたのを懐かしく思い出します。そのころは空いたそのテーブルの席に知らない他人の人も入ってきた。皆さんはそんなこと覚えているでしょうか? それが当たり前だったのです。アメリカの生活の中で他人と同じテーブルで食事をするのは少し抵抗がありますが、東洋人はわりにそのことを気にしません。しかしアメリカ人にしろ東洋人にしろ、お腹の空いている人を見て、その人たちに何かしてあげたいという気持ちになるはずです。

2年前にInterim Pastor として働いていたWhittierのSt. Andrew Lutheran Church で、夜教会の会議がある時はお昼を抜きにして4時半ごろSizzlerというレストランにサラダ、クラム・チャウダー、ウイングの食べ放題のところで1時間ほど食べ続けました。そこには常連の人たちがいて、山盛りのサラダとウイングを私と同じように時間をかけて食べていたのです。後でわかったのですが、この人たちの多くは失業者で、一日の一回の食事をこの食べ放題のレストランでお腹が一杯になるまで食べていたのです。それにしても、一人で食事をするのは切ないですね。私は一人でいることが嫌いです。誰かとともにいるということで元気が出てきます。しかしこの人たちはそこに毎日来ることで、ほかの同じ立場にある人たちと知り合いになるのです。

本当に一人ぼっちでいるのは悲しいことです。だからこそ私たち人間は一緒に話すことのできる仲間、お互いの喜びを悲しみを分かち合えることができる人を探しているのです。

こんなことを言って叱られるかもしれませんが、一年前に亡くなった豊子さん、そしてつい最近亡くなった美代子さん、この教会の会員でした。豊子さんは高塚先生の時にもいらしていました。オテロ美代子さんには残念ながら一度も会う機会がありませんでした。電話では何回か話したことはありましたが、「一度お伺いしたいのですが」と聞いたところ、「訪問はお断りします」と何回も言われてしまいました。ほかの人たちの付き合いもあまりなかったと聞いています。美代子さんの亡くなったニースを聞いて、同じ教会の会員の方を知ることができなかった寂しさと悲しみに包まれました。一人ぼっちで人生の最後を過ごすのは悲しいことです。それと反対に 静子 Genewich さんは日本からのお姉さん、妹さん、娘さん、息子さんの家族、そして毎日のように、そこで励ましの言葉も、讃美歌を歌うこともできた。そして人生の最後の呼吸の時まで、誰かに見届けられた静子さんは本当に幸福でした。それは、静子さんだけでなく、静子さんの家族、友だちである、私たちにとっても大切なことだったのです。

同じように、寂しい時、不安の時、心が落ち着かない時、神様に祈ります。そこで神様が私と共にいてくださっていることを信じます。私の祈りはいつも神様との会話です。そして私の神様との会話の中で、いろいろな質問が出てきます。神様はどうもすぐ答えを出してくださらないのですが、そこで神様に私の心の奥からの会話をする時、神様からの答えがすぐに聞けなくとも、何時か神様が答えをくださるだろうと信じます。

もっとも、その祈りの答えが自分の期待していたことでないことを人生の中でよく経験しました。何で神様、わたしに辛い思いをさせるんだろう、何で長い時間にわたっての心の安らぎ下さらないのか。しかし神様のなさることは私たちにとってわからないことが多くても、ひとつ忘れてはならないことは神様は私たちをいつも愛してくださっている方、その愛は真(まこと)であるということです。

私たちの毎日曜日に行う聖餐式はそこで神様と出会うところです。神様、イエス様に、心を謙虚にして、パンと言うイエス様の体、ワインと言うイエス様の血をいただくことによって、私たちの罪は許されているとの神様の約束の確信をいただくのです。もはや私たちは孤独で生きるものではありません。そこに神様、イエス様が私たちと共にいらっしゃるからです。イエス様を思い出して聖餐式を受けなさいとも言いますが、それ以上私たちから離れることのない神様が、人生の山と谷の中で罪に満ちた私たちを永遠に愛し共にいてくださっていることを知るのです。それは私たちの人生がこの世で終わるまで続き、神様はわたし達をその後、神様の国につれて行って下さるのです。

一人ぼっちでいることは人の間で生きる人間にとってとても難しい。この世でたった二人だけでいたとしても、それはアダムとイブの経験ですが、神様のしてはいけないということを破って禁断の実を食べたとき、自分が裸でいるという恥を始めて知ったのです。それは神様に自分の恥、罪を見破られてしまったということです。

しかし神様はイエス様の十字架の死、そこで私たち人類のすべての罪をしょってこの罪人である私たちすべてを許し、天国での永遠の命を約束されているのです。

多くの教会で修養会をどこか週末泊りがけで行うところがあります。この教会の英語部では年に2回、3泊におよぶ泊りがけの聖書を読む修養会で30人の人達たちはそれによって神様を信じる、愛することがわかってきた、と言う発言をよく聞きます。私はそれは大切なこと、泊りがけの修養会とは言わないでも、お互い、一緒に聖書を読むことによって神様の言葉が、私たちの心を開き、神様が私たちの目の前で見えるようになることがあるのです。聖書を読んでいるうちに神様の私たちへの愛が何と素晴らしいものかと感激して泣き出すこともあります。自分の家にいて聖書を読む時、祈る時を守ることは大切で、時には時間を作ってほかのことに気を使うことなく神様との心の交わりをするのは大切なことです。

新約聖書のなかにあるマルタとマリアと言う姉妹の話を皆さんは何回も聞いたことがあるでしょう。イエス様はエルサレムに来る度にこのマルタ、マリア、そしてこの二人の兄弟であるラザロの家を訪れたのです。この二人の姉妹は性格がとても違い、マルタはお客さんの接待で大変です、家を綺麗にし、料理を作る、そこで,イエス様と話をするどころではありません。「ああ、忙しい、忙しい、大変だ。それにしても妹のマリアは私に手伝いもしないでイエス様とお話をしている。私だけが忙しく働いている」との愚痴をこぼしたのです。これについてイエス様は言いました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアはよいほうを選んだのだ。それを取り上げてはならない。」良い方を選んだとは神様と共にいる時、神様と会話の時を持つと言うことです。神様の御心を聞く、そして神様と心を一つにすることです。毎日の生活の中で、忙しい生活を送っている私たちですが、必要なのは今私たちは神様に生かせれて生活をしている。それは自分だけの利益を見るのではなく、お互いを助け合って生きていくことです。その真ん中で神様、イエス様が私たちに下さった言葉、それは
“Love one another as I have loved you”.「私があなたを愛したように、あなたもお互いを愛し合いなさい」。これ以上に大切な戒めはありません。アーメン。

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