August 16th, 2011

2011年8月14日聖霊降臨後第9主日聖餐礼拝説教「すべての者よ、私の元に来なさい」”Come to Me, All of You”岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

マタイによる福音書15章21-28節

「すべての者よ,私の元に来なさい。」 “Come to me all of you”

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなた方にあります様に。アーメン。

皆さんのうちに動物が好きな人がいると思います。猫、犬、あるいは鳥、金魚、熱帯魚。これらは一般のペットですが、私の友達の中には、アライグマを赤ちゃんのときから子供のように育てた人もいます。私も動物が大好きで、小さいころは、家の中で犬も猫も飼えないことを知ってましたから、裏庭で宿無しの犬、子猫にご飯の残り物をやって自分の子供のように育てたことがあります。ご飯と言っても残り物のライスに味噌汁をかけたようなも。それでも味噌汁の中に入っていた煮干を夢中で食べていた子犬、子猫も大人になってどこかに行ってしまった時まで可愛がって育てました。

アメリカで、“Dog is man’s best friendとよくいわれますが、飼っている犬の費用は相当なものです。何処のスーパー・マーケットに行っても何の種類ものDog food が幾つも並んでいます。中には野牛とか鴨の肉を使ってのdog food もあり、そのマーケットには 犬の洋服、犬の歯磨き粉と歯ブラシ、犬の靴まで売っています。まさに犬様、様です。

今日の福音書の話はイエス様がテイルスとシドンというイスラエルの北の地中海に面したところで出会ったカナンの女との会話です。カナンといわれる所はイスラエル人の土地とほぼ同じです。しかしこのカナン人という人達は、昔アブラハムがバビロンの土地からイスラエルの土地に移る以前に住んでいた民族です。ユダヤ人の力が大きくなるに従ってアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ヨシュア、サムエル、サウル、ダビデ、ソロモンと言うイスラエルのリーダー達はすでにそこに住んでいたカナン人と戦争をして自分たちの国、イスラエルの国土を広げていったのです。

イスラエルの人達は自分たちの民族の血がほかの民族、特にそこに住んでいたいたカナン人と結ばれることを嫌っていたのです。つまりカナン人はユダヤ人にとってはアブラハムの子孫でないと言い張るところに自分たちの優越感、自分たちこそ、神に愛されている民族との優越感を持っていたのです。つまりカナン人をユダヤ人は犬のように考えていたのです。勿論それは何千年前のユダヤ人だけに限りません。日本人も自分たちの民族こそ一番優秀であるとの思いで他の民族を見下した罪があります。

さて福音書の記事に戻ってこのカナン人の女は「主よ、ダビデの子よ、私を哀れんでください。娘が悪霊に取り付かれて苦しんでいます」と言って叫び続けたと書いてあります。カナン人のこの女、ユダヤ人の国の中で、ユダヤ人でないということで見くびられて生活していたのです。

この記事の中にこの娘さんのお父さんは出てきません。お父さんはもう亡くなっていたかもしれない,あるいはどこかに出稼ぎに出ていたのかもしれない。あるいは家族を捨ててどこかに行ってしまったのかもしれない。しかし分かっているのは、このカナン人のお母さんは自分の娘が正常に戻れるよう必死だったことは確かです。自分の子供を愛さないものがいるはずないのです。イエス様の行く先には何時もイエス様の奇跡で精神、体の病気を癒されたいと集まっ人たちで一杯だったでしょう。同様に心の苦しみ、人間として他の人たちから嫌われていることを知ると言うことは実に悲しいことです。

わたしは、次のイエス様のカナンの女に対しての答えにいきどうりを感じました。なぜならイエス様のカナンの女に対しての答えがどうもイエス様らしくない答えだったからです。イエス様は、「私はイスラエルの家の失われた羊以外のものには、使わされていない」と答えたからです。何でそんな薄情な言葉を一生懸命娘の救いを求めているこのお母さんに言うんだろうか?しかしこのお母さん、必死になってイエス様に頼みました。「主よ、私を助けてください」。もしこれに付け加えて言うことがあったなら、私はお母さんの心の中を想像して、イエス様にこう言ったでしょう。「イエス様、あなたは心の奥底からあなたが救い主と信じる私を無視するのですか? あなたにしか私は頼れる方はいないのです。あなたはいつも何千人、何万人もの人からこれをしてくれ、あれをしてくれと頼まれて大変なのは知ってます。しかしこのようなはしための私の祈りを聞いてください。そしてこのお母さんイエス様の前でひざまずき、「主よ、私をお助けください」と切願したのです.

このような祈りのお願い事に答えないイエス様は心を動かされたに違いありません。近くにいた人たちの前で、こう言いました。「子供たちのパンを取って子犬に投げてやるのは、よろしくない」と。さてイエス様のこの言葉はいったい何を言おうとしているのでしょうか? 私が思うに、イエス様はユダヤ人に与えられる救いの約束を異邦人に与えるのは良くない。なぜなら神の救いの計画はユダヤ人から始まるのだからと。しかしこのお母さんそれに対して、実に素晴らしい発言をしたのです。「主よ、そのとおりです。でも、子犬もその主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と。英語に
tenacity
と言う言葉があります。その言葉は,固執、粘り強さ、不屈と言う意味ですが、食いついた犬がそれを離さないように神様の助け、救いをお願いしたのです。イエス様はどれほどこのお母さんがイエス様を信頼していたかはじめから知っていたでしょうか? 知っていたのはイエス様は奇跡のできる人、いやそれ以上に神様から使わされた者、ですから心の底から娘はイエス様によって癒されると信じたのです。イエス様は異邦人のこのお母さんの信仰をほめたのです。それは同時に、ユダヤ人と異邦人と言う隔たりはイエス様にとって無くなっていたはずです。異邦人のお母さんはもはや犬と呼ばれるものではない、この人も神の国の子供なのです。

まさに今日の福音書の話の裏にはイエス様は全世界の人々のために救いをもたらした神様の子、すべての人は神様に愛されるために生まれたとの心の安らぎを約束をなさったのです。「すべての者よ、私の元に来なさい。」“Come to me all of you”はまさにイエス様の私たちにとっての救いへの招待の言葉です。

今日の説教、それは神様の私たちへの深い愛と考えていた時、英語の讃美歌の言葉が私の口に浮かんできました。それはThere’s a wildness in God’s mercy と言う讃美歌で、さてそれが日本語の讃美歌にもあるだろうかと探しました。教会讃美歌という日本ではルーテル教会で歌われているものの中にありました。「神の恵みは海より深く」という讃美歌です。その歌詞は「神の恵みは海より深く、裁きのうちにも哀れみあふる。この世の過ち、その悲しみを、神は知りたもう, 人にまさりて。罪あるものをも受け入れたもう、主イエスの恵みは限りもあらず。主イエスの血しおは我らを癒し、罪あるものをみ国に招く」。

これはインドで長い間宣教師として働いていた人からの話ですが、あるインドの村で一人の年取った女性が宣教師によりイエス様の福音を受け入れクリスチャンとしての信仰告白をしました。村中の人がこの女性に対して「あなたは私たちの祖先からの信仰を捨てて白人の宗教を受け入れるとは許せません」と言ってこの女性を村八分にしたのです。そして続けて言いました。「あんたは村の中で一番醜い女だ」と。この女性それに答えて次のように穏やかに返答したのです。「この醜い私を愛して下さるイエスは何と素晴らしい神様ではありませんか」と。

話はイエス様のもとに着たカナン人の女性に戻ります。イエス様はこの女性に誰が彼女の両親か、この女性が経済的にも、社会的にもどんな地位を持っているのか、何も聞かなかったのです。イエス様はこの哀れんでくださいと言ったこの女性を今のそのままで愛してくださったのです。それは今、今日、明日においても同じです。イエス様の前で、イエス様から受け入れられない人はいないのです。もう一度大きな声で言います。イエス様の前で、イエス様から受け入れられない人はいません。すべての人がイエス様のもとに呼ばれているのです。

私たちは全て何処からか来ました。私たちのあるものは遠いところで放蕩の生活をしていたかもしれない。あるものは近くにいても家族もなく、友達もなく、一人ぼっちの孤独の生活をしてきたようです。又ある者は人に知られたくない罪の虜で毎日が泣き出したら止まらないような私たちであるかもしれない。しかし、これら全ての私たちはイエス様の身許に来るように呼ばれているのです。「私の体と血を受けなさい。私はあなたが許されるために来たのですよ。あなたは私によって命の力と生きる喜びを与えているのですよ。信仰によって生きる喜びを信じなさい」と主イエス・キリストは私たちの呼びかけているのです。アーメン。

 

 

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