日曜日の礼拝が始まる時、聖壇の蝋燭に火を点す奉仕を毎週し続けた盧さん(ローさん、と私達は呼んでいた)が入院したと聞いたのは3週間程前だった。一時体調を崩されて礼拝を休んでいたが、元気になって息子さんと一緒に礼拝に出席し、再び蝋燭に火を点してくれていたのに、と皆で心配していた。
「盧」という名前からもわかるように、盧さんは日本人ではない。私達は日本語で礼拝をしている日本語部だが、典型的な多民族(Multicultural) 教会なので、私のように日本生まれの中国人や、台湾から来られた方や、最近ではまったく日本語のわからないハワイから来たサモワンの親子も礼拝に来ていた。盧さんも韓国人でありながら、全く違和感なく日本語部の礼拝に来られていた。ご家族は韓国の教会に行かれているということで、私達は後に盧さんと一緒に来られた次男のDanさん以外の方にはお会いした事がなかった。盧さんの病院がわかり、岸野先生が何度か病院に盧さんを訪ね、ご家族の皆さんとも話す機会が与えられたことは幸いであった。8月14日の日曜日の礼拝に突然盧さんの奥様が見えた。礼拝が始まって少し経ってから入って来られたので、どなたかわからなかったが、その日受付だった愛子さんが、「盧さんの奥様が来られています」と聖餐式が始まる時に教えてくれたので、即岸野先生に伝えた。岸野先生は礼拝の後、皆さんに盧さんの奥様、エスターさんを紹介された。エスターさんは日本語が解らないけれど、皆さんの親切にお礼を述べたくて来ました、と頭を下げられた。そして数日後岸野先生と大橋さんが盧さんをお見舞いに行った際、病院から出てくるエスターさんと偶然に会い、盧さんが病院からホームに移ったという事を聞いた。そして後日ホームの方にお見舞いに行きますと話したばかりなのに、盧さんはその日天に召された。8月18日の夜か、19日の未明だったそうだ。あっけなく逝ってしまった。
メモリアルサービスを即行いたいという家族の依頼を受け、8月22日の月曜日、午後12時から、先ずは日本語のメモリアルサービスをし、その後韓国語で行うという事が岸野先生とご家族の中で話し合われた。盧さんがイベントの度に皆さんの写真を撮っていたのを覚えているが、盧さんの写真は見た事がない。私はメモリアルサービスのプログラムに盧さんの写真を載せたくて、2年程前に教会の住所録を写真入りで作成したのを思い出した。その写真をカメラで写して愛子さんにも送った。9月25日に行われる召天者記念礼拝の時にもこの写真を使いたかったので、愛子さんに印刷してもらうためである。土曜日の夜遅く、メモリアルサービスの原稿を受け取った私は、どうにか日曜日の朝早く教会に行ってプログラムを完成したいと考えた。Publisherというプログラムを持っている愛子さんに、真夜中で申し訳ないとは思いつつ、とにかく岸野先生から原稿をそのプログラムに入れて教会のコンピューターに送るように依頼した。日曜日の朝、8時半からプログラムの作成をし、10時半には讃美歌の折り込みもきちんと入って、全ての準備が整った。一安心である。盧さんのメモリアルサービスはきっと盧さんが喜んでくれる素晴らしい礼拝になると思った。
月曜日の朝、10時過ぎに教会に着いたが、お花はまだ届いていないようだ。11時までに届かなければ電話しなくては、と思っていると民さんが来た。忙しくなる前に何か食べてこようと二人で簡単な食事にでかけ、11時過ぎに教会に戻ってみると、祥子さん、安松さん、愛子さん、小夜子さんがすでに来ていて、お花も届いていた。祥子さんがてきぱきと礼拝堂の入り口のテーブルに白のテーブルクロスを掛け、聖壇の前に献花用のテーブルも用意された。盧さんの写真入りのプログラムもきちんとテーブルに並べられた。
11時半には Viewingの為に盧さんのご遺体が運ばれ、ご家族の皆さんが盧さんの写真と、メモリアルサービスのサイン帳を持って来られる事になっている。11時45分頃、連絡を受けた盧さんの旧友、また日本語部のメンバーが一人一人礼拝堂に入って来られた。祥子さんとプログラムを手渡しながら、「まだご家族の方はお見えになっていませんので、サイン帳はありませんが、どうぞ中にお入り下さい」とご挨拶をし、お互いに顔を見合わせながら「どうしたんでしょう?」と首を傾げ合った。もうすぐ12時という時に、岸野先生がエスターさんの携帯に電話を入れた。誰も出ないと言う。いよいよどうにかしなくてはと思った私は、祥子さんに受付を預け、礼拝堂の中に座っている愛子さんの所に足早に行き、「愛子さん、盧さんの写真をプリントしてくれた時に、大きいサイズもプリントしたと言ってたけれど、それはまだある?」と聞くと「日本語部の机の上に置いてあるけど」と答えた。よかったー、写真があった。愛子さんが「でも額に入っていないけど」と言う、それはどうにかなる、写真さえあれば、と私は思った。実は愛子さんに写真を送った時、愛子さんは召天者用の5X6の写真と、もひとつ大きなレターサイズの写真も印刷して来てくれたのだ。ご家族の方が大きな写真を用意されるという事だったので、印刷したレターサイズの写真はそのままになっていた。礼拝堂の入り口に戻ると、ちょうど岸野先生の携帯が鳴った。教会の住所を聞かれているらしいが、どうも様子がおかしい。とにかく今やらなければと思い。日本語部のオフィスに走った。階段をものすごい勢いで駆け上り、オフィスの鍵を開け、机の上に置かれた書類の中から盧さんの写真を見つけ、オフィスの中を一回り見回して、これだと思う黒枠の額を見つけた私は、机の上に飛び乗りそれを外し、盧さんの写真をその額のガラスの上に貼った。これでメモリアルサービスが始められる!額を抱えて礼拝堂に戻ると、岸野先生の顔が全てを語っていた。私と祥子さんが心配していた通り、ご家族は葬儀場で私たちを待っていたとのことなのだ。そして韓国語の礼拝はそちらで行うらしい。私達参加者だけで、家族無しのメモリアルサービスを始めるよりほかしかたない。
何事も無かったように、私は盧さんの写真を貼った額を抱え、静かに聖壇に向かって歩いて行った。三脚に盧さんの写真を静かにのせ、聖壇の前に献花のテーブルを置き、「岸野先生、始めましょう」と落ち着いて言う。神様、どうぞ導いてください、このメモリアルサービスが盧さんを偲ぶ良い礼拝となるよう、あなたが私たちの心を整えてください、と祈りながら。
始めに盧さんへの献花をしていただく。お一人お一人に花を渡す時に涙をこらえるのが辛かった。そして礼拝が始まった。心を合わせて盧さんを思い、讃美歌を歌った。岸野先生が、盧さんがいつも蝋燭点火の奉仕をされていたこと、食事の交わりの時に、いつも悪ふざけをして、皆から「盧さんだめよ」と言われていた事、などを話した。確かにいつも盧さんは私のお皿から食べ物を取ったり、毎月最終日曜日に行うお誕生日会では、「今月のお誕生日の方、手を挙げて下さい」というと一番先に、毎月手を挙げていた。とにかく冗談がすきな盧さん、悪ふざけが好きな盧さんだった。礼拝の後は全員で盧さんの写真を囲んで記念写真を撮り、参加者の皆さんにサインをしていただいた。その後、ご家族の方が既に行かれているレストランへと、何人かが日本語部を代表して参加された。
私と祥子さんは後片付けもあるので、レストランでの集まりはご遠慮させていただいた。礼拝堂の片付けをし、私は最後に入り口の鍵をかけ、盧さんの写真の貼った額を胸に抱えて日本語部のオフィスへとゆっくりと歩いて行った。盧さんの顔を見ながら、「盧さん、最後まで悪ふざけはないよ、今日の冗談はちょっときつかったよ。」と言うと、まるで盧さんが、「私は何もしていませんよ」といつものように含み笑いをしながら私を見ているように思えた。急におかしくて、おかしくて、笑いがこみ上げて来た。盧さん、最後の最後まで私を笑わせてくれて、本当にありがとう。天国ではあまり悪ふざけはしないようにね。全く私達が計画した通りには行かなかった今日のメモリアルサービスだったが、全てが神様に守られ、全てに神様のみ力とお導きがあってこそ、行う事ができたメモリアルサービスであったことは、参加者の全てが感じたことであろう。泣いたり笑ったり、岸野先生にとっては冷や汗だった今日のメモリアルサービス、きっと誰よりも、いたずら好きの盧さんが一番喜んでくれているに違いない。
2011年 8月22日 芙美 Liang 記