September 27th, 2011

Sep 26 2011 「偏見と批判は楽しい」

証し、その他, by admin1.

「偏見と批判は楽しい」      Sep 26  2011   

 とんでもない題目だと思ったことでしょう。これは全く読者の気を引く為だけが目的でつけた題目です。

 とはいえ、偏見も批判も頻繁に起っている事から考えると本当に楽なことなのでしょうね。そういえば偏見の言葉を口に出す、非難や批判をする方が早くて簡単で、わからないことを片付ける一番早い処置なのだろうと思います。解らない事を理解しようとするには時間とエネルギーがかかることでしょう。相手と心を分け合って話すとか、本を読むとか、コンピューターで検索をするとかするには、時間と努力が要ることでしょうね。

私は看護婦です。ホワイト ライと呼ばれる嘘を患者につく事はありますが常には真っ直ぐにものを話す人間です。その心でこの投稿をしています。

 教会で最近、礼拝後にしばらく話がはずんでお話を聞いたり、意見の交換をしました。そして同意する事は「教会は人付き合いが難しい所だね」でした。それは確かな事だろうと思います。結婚すれば伴侶を知りその家族を少しづつ知りそのうち仲良くすることを学ぶでしょう。仕事先では、学歴も似ていて経験も似ている人が一つの目的のために働きます。県人会には同じ県の人が集まります。同窓会では同じクラスの人が集まります。でも教会は世界の色々な所から、家族、学歴、文化、趣味、経済程度、経験の違う人が集まります。価値観も人それぞれ随分異なることでしょう。そう言う色々な人が一箇所に集まるのは教会ぐらいではないでしょうか。

 集まりには目的がある訳です。キリスト教会はクリスチャンがイエス様のみ言葉を聞き罪の許しを乞い、新しい力を頂きたいと教会に(私は)行きます。だから集まる目的はイエス様だと簡単に言っても良いのではないでしょうか。そのイエス様はそれまではほかの神がなさらないことをして人々を驚かせました。罪深い人を哀れに思われたことです。イエス様には人に嫌われた病人、取税人、売春婦、貧しくて少額しか寄付できない人、ユダヤ人から嫌われている異邦人、その他の嫌われて当たり前と思われた人を哀れんでお救いになりました。また自分に全く罪が無い人以外は他の人を批判して判断をくだしてはいけない。またユダヤ教のしきたりで口に入れる物に気を使わなければいけないが、毒は口から入れるものではなく口から出す言葉だといわれました。

 最近ある本を手に入れて読みました。日本の事を長年住んで学んだアメリカ人が西洋人向けに日本文化を説明している(外国人が日本での失敗を少なくする目的の)本です。色々ある中に、海外帰国子女への偏見、差別、国際結婚をした女性(男性はあまり差別が無いのかな?〕への偏見、差別がはっきり書いてありました。残念な事にそのしきたりは海を越えたここアメリカでも続けて成されているようなのです。LCRは他のところよりもそういう差別は少ないからとよそから来た方から伺いました。でも全く無い訳ではないという事も聞きました。そうやって自分では考えもしないことをした人を非難したり下視する事で自分の気分が良くなる人はそういう行動を行わないと自分の心を喜ばせられないというのが解っていないのでしょうかね。解っていてもやめられない問題をかかえている人なのでしょうかね。偏見や差別は「学ぶ」事で少しづつ取り去る事が出来ます。偏見差別をする人は『自分の学びが足りないことをそういう非難や下視する言葉で示している事を知っているのでしょうか。知らないからやるのでしょうか、それとも知ってはいるけど止められないのでしょうか。

 解らない事はつい自己中心に深く考えたり検索したりせずに下視したり非難したりすることで片付けでしまうのが私達の常でしょう。簡単で早いですね。

でもその行動や、言葉がどんな「毒」なのか考えないで言ってしまうのですね。私自身、売春婦の事は全く理解できませんでした。自分はお金が欲しくてもできないからです。無知がそういう人は自分の選択で行っているという自己的な考えで売春をする人を蔑んでいたと言えます。でも仕事でもっと知識が増えてくると、そういう人はわたし達が、親を選ぶことも、日本人として生まれた事も、髪が黒い事も、白人ではない事も、背の高さなども赤ちゃんのわたし達が選ぶ自由がなかったように、売春婦も自分の意思だけでなったのではなくて子供の時からの待遇、環境がそういうように作り上げ、ホモセクシャルの人が選択権がなかったと同じように人間一人の私としてはその人(達)を批判できないことを学びました。

また私は裁判官でもありませんから裁くことは神にお任せします。だから、教会はイエス様の愛と教えを学びに集まる所です。お互いを愛しましょう。「愛する」と言うのは理解しにくい翻訳ですね。むしろ「お互いに仲良くしましょう」の方が分りやすいですね。非難することよりも、非難したい時には『自分はどうしてこう思うのだろう』と自分の心の中を省みて、理解できるように学びましょう。そしてイエスさまの御心に叶う様に努めようではありませんか。それが出来て非難の言葉や差別の言葉を受けるのではないかと恐れることがなく集まる所であるように勤めようではありませんか。 民 Day

Back Top

Comments are closed.