Archive for the ‘証し、その他’ Category

Tweet 母の召天 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 長崎ミッションツアー   10月11日木曜日の午後、私たち18名はLAXから日本に向けて出発した。 日本時間12日の夕方7時ごろ成田に到着した私たちは、タイミング良くシャトルバスに乗り、9時ちょっとすぎには東京ヒルトンに到着。伊藤先生と立野牧師夫人の照美さんと、お嬢さんの華美さんに出迎えていただく。全員チェックインし、明日の朝の集合時間を再確認後、それぞれの部屋に入った。私の部屋に伊藤先生たちをお招きし、短い時間ではあったがお話することもできた。伊藤先生とは、明後日の朝、東京ユニオンチャーチでお会いする打ち合わせができ、一安心。長崎からの旅行も、伊藤先生が始めから最後までご一緒くださるので心強い。  10月13日、朝5時15分集合。ヒルトンから歩いて、大江戸線で築地市場へと向かった。愛子さんと小夜子さんは、旅行前から「自分たちが歩けなくて、皆さんに迷惑をかけたくない」と案じていたようだが、心配は無用だったようで、問題なく予定時間前駅に到着。私の従妹が築地市場に案内してくれることになっていたが、彼女と待ち合わせの時間よりも早く着いてしまい、しばらく築地市場駅前で待つ。秋晴れの青空が広がる。従妹に案内されて築地場内へ。見た事も無いような沢山の魚に驚嘆しながら築地場内の見学を楽しんだ後、築地ビルの屋上でなんと築地の社長さんが直々にご挨拶に見えたのでびっくり。社長さんから色々と説明を聞き、ご親切に私たちの質問にも答えてくださり、全員で記念撮影。その後は、お寿司グループ、ラーメングループ、天ぷらグループなどに別れて、それぞれが好きな物を食べに行く事にする。東京ツアーが午後1時からあるので、ヒルトンのロビーに12時45分に集合するということで、後は自由行動だ。 午後からのツアーは、どういう訳かずいぶんと待たされ、午後1時出発の予定が、なんと2時になってしまった。というわけで、浜離宮から始まったツアーは、観光時間を短縮されてしまい、浜離宮では催し物も沢山出ていたがゆっくり見ることもできなかった。そこから隅田川を船で渡って浅草へ。浅草ではたったの45分しか自由時間がなく、慌てて買い物をする。その後は、上野秋葉原方面へ向かい、そこでバスから降りた。上野からJRで新宿に向かう。Ashleyが、教会の友人と夕食のアレンジをしてくれていたので、彼女を待ってから、小田急デパートの12階にあるフードコートで、それぞれが好きなレストランに入り、食べたいものを食べることにした。帰りは新宿駅からヒルトンまで頑張って歩いた。なんと小夜子さんも頑張って最後まで一緒によく歩いた。  10月14日、日曜日朝7時45分ヒルトンのロビーに集合。4人ずつタクシーで東京ユニオンチャーチへ向かう。私達は8時半からの礼拝に出席した。伊藤先生が既に教会の前で待っていてくださり、私たちを礼拝堂に案内してくださった。伊藤牧師夫人の靖子さんとも、久しぶりにお会いできて嬉しかった。この日は丁度、この教会の140周年記念にあたり、何人もの前任牧師が出席されていた。私達の教区長Bishop Finckからもお祝いのメッセージがこの日の朝一番でRandy牧師に届いているはずだ。 私は、伊藤先生から急に、「後で、牧師が皆さんの紹介をしますから、その時芙美さんが代表でご挨拶してください。」と言われた。急だったのでドキドキしたが、とにかくこの記念すべき日に共に礼拝に出席できたことの喜びと、Bishop Finckからのお祝いのメッセージを伝えることはできたと思う。礼拝は、最初から終わりまで英語だった。この日本の土地で、140年の間このような国際的伝道が行われていることを始めて知り、心から感激した。音楽も素晴らしかった。また機会を作ってぜひこの教会を訪れたいと思う。  礼拝後、伊藤先生の案内で、歩いて原宿の皆が行きたい100円ショップへ。そして、直ぐ側の明治神宮を回り、東京駅へ向かう。明治神宮では思ってみなかった「お人形供養」や、日本の結婚式等に出会わし、見学することができた。 その後原宿から東京駅へと向かった。新しくなった東京駅は昔の姿をそのまま復元して堂々と建っていた。私たちは伊藤先生の説明を一生懸命聞いた。この東京駅は第二次世界大戦の時に3階が爆破されてなくなった。その後3階は修復せずにそのままになっていた。今回、東京駅を復元する際に、3階も加えたそうだ。その時、屋根に使う瓦は、雄勝にある硯石を使用する事になった。その硯石は、昔その地域の小学生が使った硯とおな時石だったそうである。伊藤先生はその地域の人達とボランティア活動をしていたが、その時に流された硯石を拾い、奇麗にして東京駅の3階の屋根にしようというプロジェクトが始まったそうだ。拾い集めた硯石のスレートが、今東京駅の3階の屋根となったという感動的なお話だった。今更ながらに伊藤先生の徹底したボランティア活動に頭が下がる思いであった。  東京駅から私達は二つのグループに別れた。熊本から京都に向かう「京都グループ」の6人と小夜子さんは、私と一緒に東京駅のみどりの窓口でJRパスを発行してもらいに行く。残りのグループは、昨日築地を案内してくれた私の従妹と共に別行動をし、最終的には両国の相撲レストランで落ち合うことになった。京都グループは、パスポートを持ってこなかった人が居たので、急遽予定変更で、ヒルトンに戻ることになってしまった。ヒルトンに戻り、彼女のパスポートを持って再び新宿駅に行き、ようやく無事に全員のJRパスを発行してもらい、新幹線の切符も予約することができた。夕食は両国の相撲レストランに予約をとってあった。両国の相撲レストランは、私も行ったことがなく、ちょっと心配だった。案の定、居酒屋なので禁煙ではなく、となりの席でタバコを吸う人がいて辟易してしまった。日本はまだタバコの国だと痛感した。 帰りはヒルトンまで電車。みなさんだんだん慣れて来たようで、切符の購入も上手になってきた。明日はいよいよ長崎に向けて出発である。  10月15日、月曜日。早朝5時50分のシャトルバスで羽田へ。羽田空港で伊藤先生と落ち合う。8時半の飛行機で長崎へ。この時思っても見なかったハプニングが起こる。チェックインの際、アイテナリーを見ていたら、なんと20日の夕方に熊本飛行場から東京に戻るはずなのが、鹿児島飛行場になっているではないか、思わずカウンターでチェックインをしてくれている人に、「鹿児島飛行場って、熊本ではないですよね?」と聞いてしまった。聞かれた方の彼女は、呆れた顔で「鹿児島飛行場は鹿児島にあります。」と答えた。大変だ! すぐにどうにかしないと予定が狂ってしまう。日本は本当にwifiが不便で、私のスマートフォンは使えないのだが、幸いなことに、主人の携帯は使える。直ぐにティケットを担当してくれた人に国際電話をする。彼女も間違えに気が付いていなかったらしい。とくかく熊本飛行場に訂正するとのことで、一応安心。そして長崎に無事到着。立野先生がドアの向こうで手をふっているのが見えた。去年の始めから計画を立て始め、それからあまりにも色々な事が起こり、一時はキャンセルしようかと思ったこの長崎ミッションツアーが、今実現している。私は言葉にならない感動を覚えながら、しっかりと立野と再会の握手を交わした。考えてみると去年の3月11日に起こった東日本大震災の後直ぐに立野、伊藤、両先生は、「るうてるとなりびと」を結成され、その地で災害にあった人たちの支えとなるべく活動を始められた。一年後に他の担当者にバトンタッチし、仙台との往復回数は少なくなったとは言え、今でも支援活動は続けておられる。(お二人は新たなプロジェクトとして現在、多くの学生たちの「卒業アルバム」を再生することによって思い出をもう一度手元に戻してあげたいと努力しながら、今でも援助活動をされている。) 次に起こったことは、立野先生が突如今年の6月から熊本に転任となった事だ。今から思えば、私たちにとってそれが最高の神様のご計画だったと確信できるのだが、その時はどうなることかと思った。今まで東京市谷のルーテル教会事務局長を務めていた立野先生が熊本に転任後、あまりの多忙に、連絡が途絶えてしまったのである。立野先生の助けがなければ、私たちの長崎ミッションツアーは到底実現不可能だ。私はかなり焦った。最終的には、神様のご計画ならば、そう成るに違いないと信じ、祈り続けた。同じ6月に主人の母が入院し、心の準備もできない内に呆気なく天に召された。なんという年だろう、と思っていたら、突然立野先生から「お待たせしました!」とも言わんばかりのメールが入り、長崎ミッションツアーの具体案が送られて来た。私は飛び上がって喜んだ。いよいよ実現可能かも?そして9月には全員の積立も終わった。一番嬉しかったのは、去年の終わりに急に乳癌だと診察され、手術後のキモセラピーを受けながら、今回の日本旅行はどうなるだろう、行けるだろうか、と心配していたJudyが、無事にキモセラピーを終え、医者からの許可も出て、長崎ミッションツアーに参加できることが確定した事だった。正に「神共にいまして、行く道を守り」、である。立野先生と握手をしながら、ウキウキした気持ちが体中から溢れ出る思いがした。  長崎到着後、有名な長崎中華街へと向かった。そこでお昼だ。長崎と言えば、長崎ちゃんぽんか、皿うどんだ。私は始めて長崎ちゃんぽんを食べた。美味しかった。私の父は、横浜の中華街に店を立てた人なので、横浜の中華街はよく知っているが、長崎の中華街はまた一味違った雰囲気があった。食後、外海(そとめ)地方へと向かう。私は立野先生から予定表が送られて来たとき、この「外海」を見て、「Out to sea」だと思っていた。この地方は、何処の家も外を見れば海なので外海地方と呼ばれている事をこの時初めてしった。私達は先ず黒崎カトリック教会を訪ねた。これから私たちが巡礼の旅を始める第一歩である。当時の人達が苦労してひとつひとつ石を運んで築き上げた苦労を思いながら長い石段を上りやっとたどり着いた教会は、赤いレンガとステンドグラスの素晴らしい教会だった。激しいクリスチャン弾圧時代から集会場として守られてきたこの教会の歴史を説明されたガイドの松原さんはこう語られた:「キリスト教弾圧時代に、皆それぞれが隠れて集会をしていた。やっと宗教の自由が認められた時に、ヨーロッパから来られた神父が長崎に大きなカトリック教会を建てた。その時に、今まで隠れて信仰を守っていた人達の全部が自分も信者だと名乗り出たわけではない。半分は隠れ切支丹時代と同じやりかたを続けている。自分もその一人だ。水方と呼ばれる信徒が洗礼を授け、布令方と呼ばれる信徒が連絡役をつとめ、説教も信徒がする。今でもそのようにして集会を続けています」。この話に私はびっくりした。どうして堂々と教会に来れないのか、不思議に思った。同じキリスト教信者で、もう弾圧もないのだから、教会に来て礼拝を共に守れる事ができるのに、とその話が脳裏から離れなかった。その後私達は遠藤周作文学館へと向った。海に囲まれているかのような、素晴らしい眺めの場所に立てられた記念館には遠藤周作の中に育ったキリスト教に対する思いが綴られていた。先ず書かれていたのは、キリスト教は自分が選んだ宗教ではなく、母から無理やりに着せられた洋服のような物だった、と書いてある。しかし彼は、その後にこう書いている。どのように身に着けたかが重要ではなく、重要なのはその後に自分がそれをどのように身に着けて行くかが大切だ、と。彼にとって母親の存在は偉大だった。勉強ができなくて落第生だった彼に、「あなたは書くことは人よりも秀でているから、物書きになる様に」と言ったのも彼の母親だった。 この母親の姿と、マリヤ様が遠藤周作の中で重なっているのではないか、と私には思えた。何事も受け止めて、自分を赦し、愛してくれる母親の存在は、まさにマリヤ様ではないか。 次に私達は出津教会へと向った。この教会は遠くからでもよく見える大きな白い教会だった。真っ青な空に建つ白い教会の入り口では、何人かの子供達が4時から始まるクラスを待っていた。中に入ると木造の教会の息づかいが聞こえるかのようだ。黒崎教会もそうだったが、この教会も確かに生きている。この教会に来られたドロ神父(そう日本人は呼んているが、Father De Rotzと書いてあった)は、長崎に初めてカトリック教会、大浦天主堂を建てたプティジャン神父が、どうしても印刷技術を身につけた人材がこの地には必要であるという願望から長崎に呼ばれて来た。ドロ神父は、長崎に到着してから大浦天主堂で石版印刷所を立ち上がらせ、その後横浜でも印刷業を営む。その後この外海地域に来られ、この地で一生を終える。一度も母国に帰らず、教会の神父を勤めただけではなく、子供達の施設建設から始まって、救助院(Aid Center)も建てたドロ神父は、人々に魚の網の作り方、作業着(日本で初めてのユニホーム?)を作らせ、それを着て農業や漁業をし、自給自足の生活を土地の人達に教えた。日本という未知の国に来る決心をし、長崎に初めておとずれた宣教師たちがどのような思いで日本の人々にキリストの福音を伝えにきたのだろうか。フランスや他の地から全財産だけでなく、医学知識まで持ってきたヨーロッパの宣教師達の偉大さには頭が下がった。教会を建てるだけではなく、学校や、生活保護施設なども建設し、社会福祉に尽くした宣教師たちの歴史が今私たちの目の前に広がって行く思いがした。 県指定文化財になっているドロ神父記念館を見た後、私達は長崎に原爆が落ちた場所に作られた平和公園の横を通って、今日の最終到着地である、カトリックセンターへと向かった。(余談だが、ドロ神父の記念館を見た後、立野先生が、「凄いなーこの人は。これから僕をドロ神父と呼んで下さい、でもどっちの“ドロ”だろう」と冗談を言っていた。立野先生も凄いですよ!)   カトリックセンターは巡礼者が宿泊できるようにと建てられた場所で、大きな畳の部屋で5−6人が布団を敷いて寝る。ちょとしたキャンプ気分だ。部屋に荷物を置き、一休みした後ロビーに集合し居酒屋へと歩いた。ここで有名な「立野の10分」の出現。立野先生は、「歩いてすぐですから」と言って、先ずは市電まで歩く。決してすぐではなかった。市電を降りてからまた歩き、居酒屋に着いた。もの凄い急な階段を二階まで上るのだが、愛子さんはきっと必死な思いで階段を上っただろうと気の毒になった。ここでも立野先生のコネクションで、なんと食べ放題の見放題の3千円。皆さん喜んで長崎での最初の夜を祝して乾杯!楽しい祝賀会のひと時だった。  0月16日、センターで軽い朝食をすませ、センター前のバス停まで皆さんスーツケースをゴロゴロと押して行く。今からバスに乗って長崎港に行く。市バスなので、私達20名がスーツケースを持って全員乗れないだろう、と心配していたら、なんと続けてバスが二台来た。神様ありがとう!!長崎港から7時40分発のジェットフォイルに乗って五島の福江港へと向った。昨日回った外海地方から、当時3千人ものクリスチャンが、幕府の弾圧から逃れて五島に逃げたという。一時間位で福江港に到着した。マイクロバスが待機していた。今日からのガイドは松尾さん。笑顔の清々しい78歳のおじさんだ。社会科の教師を引退してから五島の資料館で働いていた時に、ボランティアでガイドをしてくれないかと依頼されたそうだ。最初に福江教会堂を訪ねた。聖断の後ろの壁に掛かっていた、イエス様の心臓に茨の冠が描かれた大きな絵画が印象深かった。この後、私達は堂崎海岸に向った。ここの教会へは、皆さん昔船で通っていたというだけあて、長い船着き場が路沿いに作られていた。昔はこの路もなかったのだろう。私達が船着き場と道路が一体になっている不思議な路を歩いて暫く行くとそこに堂崎教会があった。教会の前には、「聖ヨハネ五島」 “ St. Joannes De Goto”の銅像があった。十字架に釘付けられた聖ヨハネ五島は、日本26聖人の一人で、1597年に19歳の若さで殉教した。福江に生まれ、伝道師を志して長崎と天草の神学校に学んだ彼の一生は、豊臣秀吉の命令一つで終わってしまったのだ。宗教の自由な時代に生きる私達には到底想像できない。教会の中に入ると、松尾さんが天井を指差しながら説明を始めた。「皆さん、当時ヨーロッパからこられた宣教師達は、ヨーロッパの教会の設計図まで持って来たのですが、日本の建物とは違い、天井が高くて丸くカーブしている。どうやって作るのかと迷った大工さん達は、竹を曲げてその形にして作ったそうです。」 日本人は本当に器用な民族だ。 この後小さな宮原教会に行く。皆さん歩き疲れた頃に遣唐使ふるさと館でバイキングの昼食となった。このレストランの屋根が「ノアの箱船」のように作られているのが印象的だった。食事の後、旅客船に乗って人口180人の嵯峨島に向った。小さな旅客船のデッキに座った私の横には、小柄なおばあさんが座っていた。「私は漁師を54年間やって来ました。」というそのおばあさん。この旅客船でいつも福江と嵯峨島を往復しているそうだ。しばらくして嵯峨島に到着後、病院もスーパーも無いこの島で生活する人達にとって、この旅客船で福江を往復する以外、生活に必要は買い物をする手段がない事が解った。ここから嵯峨島教会へと歩いて行く。なんと旅客船で隣に座っていたおばあさんは桟橋のすぐ側に住んでいて。彼女のご主人が出て来て、自分が教会まで案内すると言われた。嵯峨島教会のメンバーなのだそうだ。山の上の小さな教会で、ご主人の川上さんがこの教会と島の歴史を私達に話して下さった。貴重な証しである。今教会に毎週集ってくる人達は5人位だそうだ。一ヶ月に一度本土から神父さんが来るということで、小学校もう一つ、中学も一つ、高校は福江にある福江城が高校になっているそうだ。若者達は子供達の将来を考えて、皆福江に移り住み、家業の漁業を続ける為に福江から旅客船で嵯峨島に通って来ると言う。厳しい現実に反して、川上さんの表情はやさしく温かい。 川上さんは校長先生をされていたそうだ。私たちは、その次に貝津教会を見学した後、松尾さんの案内でこの教会から歩いてすぐにある千畳敷海岸に行った。どうやって文章にしてよいかわからないような、 千畳敷の岩が海に突き出ていて、それに波が白いしぶきを上げてぶつかる様は、何時まで見ていても飽きない風景だ。岩の間にできた自然な水たまりには、小さな魚や蟹が泳いでいる。まるで大きな水族館の中にいるような気分だ。崖っぷちには、手書きで「ふるさとの海がいつまでも恵み豊でありますように」と書かれたサインが建っていた。残念ながら島散策の時間が終わってしまったので貝津港へ戻る。今日最後の旅客船は4時出発で、それに乗らないと明日の朝まで旅客船は来ない。港へ戻る路を急ぎながら、「川上さんは居なくなっちゃたわね、お家に帰ったのかしら?」と話していたら、なんと川上さんが大きな袋にアイスクリームを沢山入れて私達に持って来て下さった。何も無い島なのに、どこからこんなに沢山のアイスクリームを集めて来て下さったのだろう。旅客船を待つまで、私達はアイスクリームを楽しみながら川上夫妻とお話をすることができた。日本の古き善き時代をこの小さな島で体験することができた。おばあさん(川上夫人)は、他の島から船でこの島に嫁いでこられたそうだ。ご主人の顔も知らないで嫁がれ、何も無い島で大変苦労されたそうだ。楽しくおしゃべりをしていると、旅客船が到着した。私達は川上夫妻に見送られ、船上の人となる。いつまでも手を振って送って下さったお二人の顔を、私達は一生忘れないだろう。この夜の宿泊は五島の福江にある上乃屋だった。こじんまりとした旅館は、皆さん親切この上ない。なんでも丁寧に教えてくれた。食事前の散歩のつもりで、旅館の外の路をずっと下って行くと、なんと福江城の裏門にでた。そこから高校生が自転車に乗って出て来る。そうだ、ここは高校の校舎になっていたんだ、と思い出した。五島でただ一つの高校である。 夕飯は典型的な旅館の食事だった。皆さんにとっては興味深かったに違いない。(好きか嫌いかは別問題として) 食後、皆で散歩にでたのだが、ここは夜8時を過ぎると店が全部しまるらしく、本当にスーパー位しか開いていなかった。美味しそうな果物を買って旅館に戻り、早めに寝る事にする。明日の朝も早い。  10月17日、旅館の朝食に納豆がでた。皆にどうやって食べるか指導したが、ハロルド以外、誰も試そうともしなかった。福江に住んでいるガイドの松尾さんが、旅館までバスで迎えに来られた。引き続き五島のツアーが始まった。何人ものキリシタンが閉じ込められた楠原牢屋を重い心で見学。当時のクリスチャン達が通った茨の道は、想像もつかない。一台のバス位の大きさの部屋に200人もの人が入れられ、立ったままで何週間も閉じ込められたのだ。どうしてこのような残酷な事を同じ人間にすることができるのだろう。特に姫島に逃れたクリスチャン達は、貧しい暮らしに耐え隠れ住んでいたが、そこにも弾圧の嵐が押し寄せ、拷問を受けた。禁教令が解けた後も、その土地には赤痢や天然痘等の災難に見舞われ、多くの命が奪われた。後に子孫の手によって先人の墓を五島に移した。私達はその姫島の人々の墓地も訪ねた。 松尾さんの話では、地域によってはクリスチャンに対してそれほどひどい仕打ちをしなかった地域もあるそうだ。それは地元の人達が皆仲良く暮らしていたから、政府の掟がどうであれ、表面上はクリスチャンを牢屋に入れたとしても、すぐに元の生活に戻してあげたという。その証拠に、ある地域の人達の墓地は、キリスト教も佛教も一緒だった。その松尾さんの話と、キリスト教と佛教が一緒の墓地を実際に見て、そこに少しは希望があるような、心が少し楽になったような気がした。 次に私たちが入った三井楽教会の中は素晴らしいステンドグラスで歴史を物語っていた。片方はキリストの聖誕から復活までの歴史、片方は、五島でのキリスト教の歴史:宣教師が長崎に着いてから、キリスト教を布教し始め、その後のキリスト教弾圧を経て、この教会ができるまでの歴史を物語っていた。この写真はいつまでも大切に取っておきたい写真である。ステンドグラスと言えば、私達が訪ねた教会の殆どにステンドグラスがあった。特に、椿の花をシンボルにしたデザインが多かった。松尾さんの説明によると、ヨーロッパから来た神父達は、キリスト教の花はバラの花だと教えたが、五島にはバラの花がなく、沢山咲きほこる椿をバラの代わりにし、キリスト教の花の代表として、ステンドグラスにも椿が描かれているのだそうだ。三井楽教会の後、日本一美しいと言われる高浜ビーチに寄る。天気はあまり良くなかったが、早速海に足を踏み入れたのはPaulとHearldだった。松尾さんはその後特別に大瀬崎灯台に案内してくれた。東シナ海に突出した岸壁の突端にある白亜の灯台は、日本の西の海の航海安全を今でも守っている。ここから日本最後の夕日を見る事ができるそうだ。当時は灯台守の家族が実際にこの灯台に住んで、子供達は歩いて学校に何時間もかけて通ったそうだ。信じられない。この日のお昼は「NEWパンドラ」で食べた。そこに掛かっている凧を見てびっくり。この凧は、昨日からCarolyn Carterが「どこにいっても見るこのキャラクターは一体何者なの?」と聞いていた凧だ。さっそく由来を尋ねた。この凧は五島では何処でもある凧で、バラモン凧と呼ばれる。代々、おじいさんが孫の健康を祈って作る凧だそうだ。この凧が五島の空を舞いながら子供達の健康を祈って祝うのだろう。 昼食の後、井持浦教会を訪れた私達は、そこにあるルルドの泉を見学。ルルドから水を運んで来た神父が、そこの井戸にその水を入れたという。ここに積み上げてある石は、それぞれの地域の教会が自分たちの所から石を運んできたという。確かに石に「福江教会」、「浦頭教会」等、様々な教会の名前が刻まれてあった。昔は水が岩から流れ出て来たのを飲んだらしいが、今はちゃんと水道の蛇口が着いていた。真っ先にJudyが行って水を手ですくって飲んだ。私もそれに続いた。彼女の癌が癒されるようにと心で祈った。この後、私達は長崎に帰る為に、五島の福江港へと向った。 そろそろ松尾さんともお別れの時が近づいた。 砂利道を歩いてバスに戻る途中、松尾さんが私に静かに語った言葉を私は忘れないだろう。「私は思うんですがね、政治家は自分たちの都合のいいように宗教でも何でもコロコロ変えるけど、漁民や農民は、一度信じたら信じ続けるんですよね。」 確かに、だから踏み絵を踏めなかった人達が沢山捉えられてしまった。そして踏んだ人達は、罪を告白して許してもらおうと、マリヤ様の像を拝んだ。自分の全てを受け入れて許してくれる母親像がマリヤ様のイメージと重なっているのだろうか。遠藤周作文学館で見た彼の母親像もそうだった。 この土地の人達が、マリヤ様に執着し、マリア観音とまで言われる「土教」に近い信仰になって行き、それが自分たちの信仰の形として育って来ているのではないだろうか。だから現在は宗教の自由が認められているにも拘らず、教会には来ないで、自分たちで集会を守っている人達がいるのだ、私にもこの変えがたい現状がだんだん理解できて来たような気がした。福江港に到着した私達は、松尾さんと記念撮影をし、別れを惜しんだ。ずっと運転し続けていた運転手の松崎さん、ご苦労様でした。そして私達は再びジェットフォイルで、長崎へと出発。 その晩は長崎駅近くにある東横インに宿泊。 ホテルの近くの出島で夕食。その後私達女性軍だけで歩いて、もう一度長崎チャイナタウンへと繰り出す。楽しく買い物をし、アイスクリームを食べてホテルに帰宅。明日はいよいよ天草へ向う。   10月18日、この日の午前中は自由時間ということになっていた。11時半までは、長崎原爆資料館、永井隆記念館、大浦天主堂、そして蝶々夫人で有名なグラバー邸などの名所から自分の好きな所へ行き、お昼頃に長崎から高速船に乗って天草へ向う予定になっていた。 主人は丁度良いチャンスだと、ホテルにあるコインランドリーで洗濯を始めた。私も久しぶりにゆっくり支度をして、ロビーに降りて行った。すると皆がざわついているではないか。どうやらとんだハプニングが起こっているらしい。立野先生の緊張した表情からもそれが伝わって来た。台風の関係か、海が荒れていて高速船が予定通り運行されていないという。天草に行く順路を急遽変更するので、今すぐ出発の準備をして下さいと言われた。洗濯物をコインランドリーに入れたばかりの主人の顔色が変わった。でもそれどころではない。とにかくどうにか天草に行かなくては。結局長崎駅発10時のJRに乗る事に決まった。 決まった時点で、まだ時間があるので、一カ所だけ観光が可能になった。殆どの人達は出発準備ができていたので、スーツケースを引きずって長崎駅へと急いだ。私は先ず準備できていない人達にホテルで待っているように伝え、長崎駅に走って皆の後を追った。皆は長崎原爆資料館に行く事になり、荷物を長崎駅においてタクシーで行き、9時45分までに戻って来る事になった。Judyが大浦天主堂に行きたいと願っていた事を伊藤先生が覚えていて、Judyだけ伊藤先生とタクシーで大浦天主堂に行く事になった。 私は伊藤先生の思いやりに心から感謝した。キモセラピーが終わってこの旅行に参加する事ができたJudy だが、まだ体力的にも精神的にも100%ではなかったから、彼女に取ってこの旅が癒しの旅になるようにと、私達は願っていた。伊藤先生もその事を良くご存知で、こんなドタバタしている状況でも、一番大切な事を実行される先生はさすがだ。それぞれがタクシーに乗って出た後、立野先生は電車の切符を買わなくてはならない、私は荷物番。立野先生が戻ってきた。私はすぐに走ってホテルに戻る。準備できていなかった人達が待っていた。もう観光する時間はない。私は頼まれていた文明堂のカステラを買う時間はあるだろうと思い、ホテルのすぐ側にある文明堂本店へ行き、カステラを買った。スタバでコーヒーを買って戻って来た彼女達と合流してホテルに荷物を取りに行き、もの凄い勢いでスーツケースを押して長崎駅にぎりぎりで到着。立野先生が私達を待っていた。そして全員無事に10時発のJRに乗った。この電車にのってある駅まで行き(名前は忘れたが)、そこから小さな黄色いワンマン電車で島原方面へと向い、バスで口之津まで行き、そこからフェリーにのって天草の鬼池まで行く事になった。市バスに全員乗り込んだので、地元の人達はびっくりした事だろう。普段はきっと余裕で座れたに違いない。バスの後方で立っていた伊藤先生が、急に帽子を脱いで、「皆さん、ご迷惑をおかけしています。」と言って頭を下げた。その後で先生が突然バスの外を指差して、「あー、やっぱりこのバスに乗ったお陰で島原城が見えた。このお城が島原の乱の最後の舞台になった場所なんだよ。」と教えて下さった。  やっと口之津に着いたのはいいが、2時45分に出航するはずのフェリーが、天候のため何時出航するかわからないというアナウンスがあった。私達の目には静かな海なのだが。青空の気持ちの良い天候なのに、どうしてだろう。 立野先生が、先ず「皆さん祈って下さい」と言われ、その後で「とにかく4時まで待ちましょう」と言われた。ここで焦っても仕方が無い。私は待合室で愛子さんと小夜子さんと売店で買ったお菓子を食べながらおしゃべり。二人ともよく頑張っている。五島の巡礼の旅はかなり大変だったに違いない。この旅行は、伊藤先生がまだ南カリフォルニアで牧会をされていた時に、愛子さんが伊藤先生に「是非行きたいからお願いします」と頼んで、伊藤先生が実現する事を約束した所から計画が始まったのだ。愛子さんに取っては、待ちに待った旅行に違いない。私は何度も切符売りの窓口に顔を出し、「すみません、ロサンゼルスから18名来ていて、どうしても天草に行きたいのですが、次のフェリーは出ますか?」と聞いた。可哀想に窓口のお姉さんは、「こればかりは、天候によりますから、私達には何とも言えません。すみません。」と、彼女のせいではないのに申し訳なさそうに頭を下げた。そして4時ちょっと前に、「次のフェリーは出航します。」というアナウンスがあった。万々歳、神様ありがとう! 飛び上がって外の芝生で寝転んでいる皆に吉報を告げた。フェリーに乗り込んでいざ天草へ。  鬼池港に到着すると、首を長〜くして待っていて下さった、大江教会の岩崎佳子さんと、本郷さんが出迎えて下さった。お二人は熊本の大江教会から、九州学院のバスを借りてここまで来て下さっていた。岩崎さんと初めてお会いする。ご挨拶をしながら、もう随分昔からの友人のような思いが気持ちになっていた。佳子さんが、「よかったねー、次のフェリーは出ないってよ。今日はあなた達が乗って来たフェリーだけが出たのよ。」と感激して教えてくれた。本当に神様のなさる事は私達の想像を超える。私達は九州学院のチャーターバスに荷物を積んで、全員がバスに乗り込んだ。前の席に座った立野先生に笑顔が戻った。ここからは立野先生が私たちのガイドだ。到着が遅かったので、計画していたようには行かないけれど、ホテルに到着前に天草陶器には行ける事になり、皆大喜び。そこで、私達はそれぞれに好きな形の素焼きを選び、その上に教えられたように絵や字を書いた。これは焼き上がって陶器になった後で、ここから直接ハンティントンビーチの教会まで郵送して下さるとの事だった。ずっと乗り物に揺られていたし、教会巡りを続けていた私達に取って、これは本当に良い気分転換だった。楽しい工芸の時間があっという間に過ぎた。いよいよ立野先生が太鼓判を押した天草のリゾートホテルへと向う。 ホテルについてびっくり!目の前に海が広がるこのアレグリアガーデンズ天草は、今までのビジネスホテルや、旅館とは全く違う。広々としたロビーの窓の外も海。 食事は6時半に私達の為に予約された大広間に集合するという事で、それぞれが先ず自分たちの部屋に行く。私は部屋に入ってこれまたびっくり。凄い豪華な部屋なのだ。お風呂場だけで、昨日のビジネスホテルの大きさはあるだろう。窓から見える海が永遠に広がって行くかのようで、疲れが癒されて行く。6時半に広間に入ると、すでにテーブルが準備されていた。岩崎さんと、バスを運転して下さっている本郷さんも一緒に、合計22名が長いテーブルに向かい合わせて座った。30センチはあるだろうお品書きを眺めながら、私達は感嘆するばかりだった。次から次にでるお料理、新鮮な魚に舌鼓を打ちながら、ビールで乾杯。本郷さんは焼酎。皆さん本当に今日はよく頑張った!食事の後、Carolyn Cartert, Jeanne Shimonishi そして私は、浴衣に着替えて露天風呂に行った。外は暗かったが、海の向こうに明かりが見えて、とにかく気持ちがいい。大きな露天風呂は私達3人だけだった。これも良い体験談になる。何時まで入っているとのぼせてしまうのでいい加減な所で出た。 部屋に戻って次の朝までぐっすり寝た。  10月19日、朝食の準備された広間に入ると、もう既に皆さんがバイキングスタイルの朝食を楽しんでいた。今日は魚の朝食でも納豆でもない、パンもコーヒーも果物も盛りだくさんだ。朝食後すぐにバスに乗り込んで天草コレジヨ館へと急いだ。コレジヨ館は、宣教師養成を目的とした神学校の最高学府で、1591年から6年間開校され、ラテン語教育や天草本がここから出版されたそうだ。いわゆる南蛮文化の中核となった場所である。ここには、1582年にローマに使節団として送られた4人の青年達が8年後の15910年に持ち帰ったヨーロッパの楽器や、竹で作られたパイプオルガンを復元された物が置かれていた。豊臣秀吉の意向により、天正少年遣欧使節団としてローマに送られた4人は、当時12歳から14歳だったと言われる。 8年後に彼らが帰国した時には既にキリスト教に対する弾圧が始まっていた為に、無惨な生涯を遂げたという。天草にもって帰って来た物は西洋楽器の他にグ−テンブルク印刷機等もあった。現在コルジヨ館に置かれている物は全て復元されたものだ。私達の為に、地元のボランティアの皆さんが特別に集って下さり、演奏会をして下さった。その曲の中には、当時豊臣秀吉が大変気に入って何度も聞かれたという曲もあった。私はどうも日本史の勉強不足で、この豊臣秀吉が、最初はキリスト教を黙認し、ヨーロッパ文化に興味を示したのにも拘らず、1597年には命令を出して京都に宣教活動していた宣教師らを捕えた、それが日本二十六聖人の殉教である。五島で見た像、聖ヨハネ五島も殉教した一人だ。歴史には、明治政府の予想に反して、キリスト教禁止と信徒への弾圧は諸外国の激しい抗議と反発を引き起こし、岩倉使節団が欧米諸国を視察した際、キリスト教の解禁が条約改正の条件であるとされ、1873年(明治6年)にキリスト教禁止令は解かれた、と記録されている。当時の政治と宗教の複雑な関係に挟まれ、二百年以上も迫害に耐えた人々の喘ぎが聞こえるかのようだ。 コレジヨ館の館長さんに見送られて、私達は崎津カトリック教会へと向った。この教会は1569年にアルメイダ神父によって建てられ、ここを中心にして、キリスト教は天草に栄えた。ところが1638年に禁教令が天草で実施されてから、崎津では激しい迫害の嵐がふいた。1873年キリシタン禁制の高礼が廃止後、弾圧をへて、信仰を守ったキリシタン信者のより所として1883年に再び教会が建てられた。そして昭和9年にハルブ神父によって建立された貴重なゴシック様式の教会は、小さな漁港にそびえ立っていた。小道を歩いて行くとそこはもう漁港だった。ここから見える崖っぷちにはマリヤ像が建っていて、漁師達が漁船を出すとき、先ずそこでお祈りをするという。本当に狭い石畳の道を歩きながら、伊藤先生が独り言のようにこう言っていた、「ここは今僕が支援活動で行っている岩手県にある漁港にそっくりだなあ、この地方の人達が移って行ったのかなあ」。いかにも伊藤先生らしい。 私達は崎津教会の中に入り、立野先生のお話を聞いた。聖壇のご聖体が置かれている場所を指して、「なんでここにご聖体が置かれているか皆さんわかりますか? ここが当時踏み絵の場所だったのです。毎年毎年踏み絵が行われ、踏んだ人だけが助かったんです。そして踏んだ人が告白する場所があって、彼らはそこに行って自分の罪を許して下さいと告白したんですね。それでもやはり最後は踏み絵を踏めなくなってしまい、殉教された人達が沢山いました。」 先生の話は続く、「長崎と天草の違う所は、長崎のクリスチャンは五島に逃げられた、でも天草の人達は逃げる場所がなかった。しかも当時の天草の領主はクリスチャンだったし、天草にヨーロッパ文化が入って来ていたから、幕府にとっては一番危険な場所だと思ったのでしょう、天草でのクリスチャン弾圧が一番激しかった。天草の人達は逃げる場所もなかったんです。」 なるほど、これが天草四郎と島原の乱へとつながるわけだ。 私達がバスから垣間みた島原の「原城」が最後の場所だと伊藤先生がおっしゃった事を思い出した。 崎津教会が私達の訪れた最後の教会となった。立野先生のお祈りの後、全員がそれぞれの言語で主の祈りを唱えた。  ここから私達は熊本へと向う。今夜は大江教会で皆さんが歓迎会をして下さるそうだ。バスの中では、立野先生が引き続きお話をして下さった。天草の家々の玄関には、一年中お正月に飾るしめ縄が飾ってある。これは当時キリスト教弾圧を恐れて、「私は佛教です、キリスト教ではありません」という意味で飾りっぱなしにしたのだそうだ。この日のお昼は素晴らしい「ブルーガーデン」という岸壁のレストランだった。名前の通り、外は青い海。レストランの外にある崖っぷちの間の石段をずっと降りて行くと海岸だ。降りて行くのは簡単だったが、帰りに上ってくるのが大変だった事。フーフー喘ぎながら、やっとレストランに戻った。そしてレストランの皆さんに送られて再びバスに乗り、一路熊本へと急いだ。(天草も熊本県なのだが。)熊本市に到着。ここで本郷さんとはお別れする事になった。明日の仕事があるので大江教会の夜のレセプションには出られないという。ハンティントンビーチから下げて来たテキーラを重々しく進呈した。今夜ゆっくり休みながら飲んで下さい。本当にお疲れさまでした、心からありがとうございました。ここから私達は熊本の宿泊場である、熊本東横インでチェックインした。少し休んでから、ロビーに集合し、立野先生と伊藤先生の後を着いて大江教会へと歩いた。ここでも「立野の10分」が出現する。すぐですよ、と言われて歩いたのが30分。大江教会は九州学園の学内を通り過ごした所にあった。すでに暗くなっていたが、教会員一同が外で待っていて、笑顔でお出迎えをして下さった。なんか旅の疲れも取れてほっとした気分だ。谷口さんの司会で始まったレセプションは、本当に楽しかった。お魚ばかり食べて来ただろうから、という温かい気配りで、サンドイッチやサラダ、果物、フライやデザートが沢山テーブルに並べられ、カレーコーナまで準備されていた。このカレーが今日のお昼にフルーガーデンで食べたカレーよりも美味しかった。私達は自己紹介も兼ねて自分たちが一番印象深かった事を一人一人順番に話した。皆さんの話を聞いていると、旅で出会った人達の温かさ、そして今まで知らなかった日本の歴史等、心に残る思い出が沢山できたようだ。私も自分がいかに勉強不足であったかをしみじみと感じた旅だった。そして、今でも残っている古き良き時代の日本に触れることができた旅でもあった。伊藤先生は、「皆さんこれからお帰りになった後で、感じる事が多いと思います」、とおっしゃっていたが、正にその通り。現在私はこの旅行記を書きながら、改めて感銘する事ばかりである。伊藤先生の言われた事を英語に訳して皆さんに話しながら、本当に考えさせられた。先生は、「崎津の漁港を歩きながら、現在自分が支援している雄勝の場所に似ていると思いました。キリスト教弾圧の為に殉教した人々を思いながら旅をして来ましたが、東日本大震災で津波に流されて命を落とされた方々も含めて、本当に私達には計り知れない神様のご計画がそこにあるのだということを常に感じます。」 そのとおりである。私達が生まれてから死ぬまでの人生は、思いがけない事が起こり、決して計画通りには行かない。全力を尽くして全てを信じて神様に委ねる所に、私達の信仰が育っていくのだろう。まだまだ未熟な私である。大江教会で先ず始めに、天草の旅をご一緒してすでに仲良しになった岩崎佳子さんのご主人、岩崎先生が代表でご挨拶された。岩崎先生は、立野先生の九州学院時代の恩師だという。そして司会をされた谷口美樹さんのご主人は現在九州学院の教師を務められ、お仕事の途中からレセプションに駆けつけて下さった。谷口ご夫妻の息の合ったデユエットを聞きながら、この教会はこれから絶対に明るく前進する教会だと確信した。神様の大いなる祝福がこの教会に注がれて行く事だろう。私達がハンティントンビーチから持って来たお土産の60人分作れるコーヒーメーカー、そして聖餐式のホスチア千枚入りを10箱、をプレゼント。そしてLCRの写真をバックグラウンドに作った姉妹教会の額を進呈。大江教会からも記念品を頂き、これから姉妹教会として交わりを深めて行く約束をした。来年は復活教会日本語部が宣教開始25周年を迎える。是非大江教会から皆さんに来ていただきたいと思った。楽しくおしゃべりをし、あっという間に夜も遅くなってしまった。大江教会の聖壇の前で記念撮影をした。明日は京都に行くグループ6名、東京に帰るグループが8名、そして愛子さんはお嬢さん達と広島へ行き、小夜子さんは熊本に住んで居る甥子さんの所に行く事になっていた。明日の朝は先ず熊本教会に呼ばれている。熊本教会は、ルーテル教会が始まった場所である。そして愛子さんは是非その教会にあるルターローズのステンドグラスを見たいと前々から話していた。私達の宿泊する東横インから熊本教会まで2分とかからない。大江教会とお別れをし、夜の九州学院内を通ってホテルへ帰る途中、まだ塾で勉強している小学生達が窓越しに手を振っていた。沢山の外国人を見たからだろう。ポールが一言「なんでまだベッドに入っていないのか、この子達は」と聞いたので、「アジアの子供達は遅くまで勉強するのよ」と答えた。私の子供の頃は遊んでばかりいたのだが、今の日本の子供達は気の毒だ。五島の小さな小学校はだんだん子供達が居なくなっていると言う。嵯峨島の若者は何も無い小さな島から五島の福江に移り住む、子供達の教育の為だと言う。だんだんこうやって日本の小さな島が存在しなくなって行くのだろうか。五島といえども130の島があるという。その中には無人島もある。私達が訪ねた人口180人の嵯峨島も、いずれなくなってしまうのだろうか。あれほどまでに五島、島原、天草の歴史を大切に守り、誇りを持って生きている人達の事を思わずにいられなかった。神様の守りと導きがあるように心から祈り、眠りについた。  10月20日、チェックアウト後、全員で熊本教会を訪問。朝比奈牧師が迎えて下さる。少し早めに着いてしまったので、応接間風な待合室で待っていると、朝比奈先生が教会堂に案内して下さった。二階にある教会は、重みのある木造の教会堂で、いかにも由緒ある教会に相応しかった。愛子さんが見たいと行っていたステンドグラスが、教会の三角形の屋根に近い壁に、奇麗に組み込まれていた。ルターローズだ。五島では全部が椿だった事を思い出した。少し熊本教会の歴史を伺った後、コーヒーと紅茶と美味しいケーキやクッキーを頂いた。温かいおもてなしに感謝。そこから京都グループはお迎えの車で熊本駅に向った。広島組と小夜子さんは東横インに戻る。私達は荷物を車に乗せて、熊本城へと向った。この熊本城の大きさに私達はびっくりした。とにかく大きい。全部回ったら半日以上かかるだろう。私達はこれから阿蘇山へ行くので、時間が限られていた。出来る限り見て、記念撮影もし、タクシーで九州学院に行き、そこから3台の車に別れて乗り込み、阿蘇山へと出発した。 普段は噴火口をあまり見る事が出来ないと聞いていたが、この日は本当にラッキーで、噴火口まで行く事ができた。皆さん大喜びである。日本のグランドキャニオンと呼んで下さい、などど立野先生が冗談を言っていたが、確かに「グランド」だった。 阿蘇山を下り、昼食はいろりを囲んで焼きおにぎりや、きりたんぽだった。美味しい昼食の後、コーヒショップでコーヒーをいただき、その次は草原で美味しいアイスクリームを食べた。熊本の飛行場に到着後、立野先生、お二人同姓同名の岩崎姉妹達、谷口ご夫妻と暫し別れを惜しみながら再会の約束を交わした。来年は是非ハンティントンビーチにお出で下さい。お待ちしています。主に在っての交わりを感謝します。お元気で!!  朝早くから夜遅くまでびっしり詰まった内容の濃い長崎ミッションツアーが終わった。羽田に向う飛行機の中で、私はなんと恵まれた、なんと守られた旅行だっただろう、と心から感謝の思いがこみ上げて来た。実現しないかとまで思った長崎ミッションツアーが実現し、しかも天候にも恵まれ、天草にも無事に行く事ができた。小さな島で素晴らしい巡り会いを体験した。日本のキリスト教が通らなければならなかった辛い歴史を少しでも学ぶ事ができた。ヨーロッパから日本の為に命も惜しまずにやって来て日本で生涯を過ごした宣教師達の偉大さも垣間みる事ができた。この貴重な体験がこれからの私の人生にどう活かされて行くのか、それがこれからの課題のような気がする。私達のこの世での生涯は、本当に短い時間だけれども、神様は繰り返し私達に「神の御業」を示してくださる。私達は往々にしてそれに気がつかないで日々の生活を送っている。今回の長崎ミッションツアーを体験して、この旅行記を何日もかかって書きながら、私は人間の思いを越えた「神の御業」が常に私達を取り囲んでいるような思いがしてならない。純粋な神の愛に救いを求めて生きた隠れキリシタンと呼ばれた人達、その人達は、自分を無にして神様に命を委ねたのだろう。現在の有り余る程の物に囲まれた、ハイテクの生活の中で、私達は心棒である神様に常に戻って行く事をしているだろうか。都合のいい時だけ、神様を思い出し、神様を自分の生活に合わせているような気がしてならない。隠れキリシタン達にとって、自分の全てを神様に捧げた毎日は、言葉では言い表す事ができない日々だったに違いない。それなのに彼らはそれを選んだ。私は、五島の教会巡りをしながら、何度も鳥肌が立つような思いがした。自分ならどうしただろう。踏み絵を踏んだだろうか? 私達はただ日本のキリスト教の歴史を学んだだけで終わるのではなく、その歴史を歩んだ一人一人のクリスチャンの思いを伝える者として、神様が選んで下さったのだと私は思う。その思いは、これからの私の人生と共に生き続けて行く、そして私の中で大きな底力となるに違いない。  最後に、この旅行を実現させて下さった伊藤先生、立野先生に心から感謝申し上げます。6月に熊本に赴任されてから多忙極まるスケジュールの中、長崎ミッションツアーの全行程を計画して下さった立野先生、そして協力して下さった大江教会員の皆様に、言い尽くせない感謝を送ります。バスを提供して下さった九州学院にも心から感謝を致します。参加者18名が、それぞれに持ち帰った貴重な体験を、決して忘れることはないでしょう。来年は是非ハンティントンビーチでお会いしましょう!    †Fumi Liang Cultural Ministry Coordinator/Japanese Ministry  website:california.lcrjm.com Lutheran Church of the Resurrection Office: 714.964.1912 Mobile: 714.334.2227 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 「イエス様と一緒に無花果を食べましょう」  2011 9 30     世界的な天候異変や天候不順の為,ここ南カリフォルニアも9月も終わりになると言うのに朝からどんよりと曇っていてこの時期では当たり前の抜ける様な秋空が何処かに行ってしまった。 それでも我が家の狭い裏庭には相変わらず果物の樹が犇いており、樹々同士が息が詰まりそうだ。今年は午前中の日照時間が短い所為か果物が仲々思う様に熟さない。それでも最近やっと午後の陽射しを受けて無花果の紫色の大きな実が熟し出した。5-6年前に植えたのが背丈が屋根より伸びてしまい、先日住宅の管理組合から樹を伐る様にとの注意書きを貰ってしまった。無花果は中の種が口の中で何とも言えない感触が味わえる。こんなに甘くて美味しいものをイエス様と一緒に食べる事が出来たらどんなに幸せだろうとつくずく思う。しかし2000年もの前の無花果と現在のものとは勿論進化していて同じ味わいではないと思う。 イエス様が旅行中に空腹を覚えられ道端にあった無花果を見かけられたが実はなかった。イエス様、我が家の裏庭に来て下さい。毎朝入れ物一杯の無花果が取れます。思う存分味わって下さい。イエス様が「今から後お前には実がならない様に」と言われると木は忽ち枯れてしまった。私は聖書学者ではないので難しい解釈はわからない。つまり確固たる信仰をもっていれば山をも動かす事ができると言うのであろう。無花果が丁度そこにあったので、例えに使われたのではないか。今は飽食の時代、何も無花果を食べなくても他に美味しいものは山程ある、しかし、こんな時代でも無花果の自然の味わい,甘さは何千年前も今も人の心を幸福感に満たしてくれる。ここ南カリフォルニアは砂漠なので原産地に気候や風土が似ているのかも知れない。私が天に召される時は取り立ての大粒の無花果を篭一杯もってイエス様の処に行きましょう。何千人もの人達とも分けて食べましょう。もう少しお待ち下さい。  愛子 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 「偏見と批判は楽しい」      Sep 26  2011     とんでもない題目だと思ったことでしょう。これは全く読者の気を引く為だけが目的でつけた題目です。  とはいえ、偏見も批判も頻繁に起っている事から考えると本当に楽なことなのでしょうね。そういえば偏見の言葉を口に出す、非難や批判をする方が早くて簡単で、わからないことを片付ける一番早い処置なのだろうと思います。解らない事を理解しようとするには時間とエネルギーがかかることでしょう。相手と心を分け合って話すとか、本を読むとか、コンピューターで検索をするとかするには、時間と努力が要ることでしょうね。 私は看護婦です。ホワイト ライと呼ばれる嘘を患者につく事はありますが常には真っ直ぐにものを話す人間です。その心でこの投稿をしています。  教会で最近、礼拝後にしばらく話がはずんでお話を聞いたり、意見の交換をしました。そして同意する事は「教会は人付き合いが難しい所だね」でした。それは確かな事だろうと思います。結婚すれば伴侶を知りその家族を少しづつ知りそのうち仲良くすることを学ぶでしょう。仕事先では、学歴も似ていて経験も似ている人が一つの目的のために働きます。県人会には同じ県の人が集まります。同窓会では同じクラスの人が集まります。でも教会は世界の色々な所から、家族、学歴、文化、趣味、経済程度、経験の違う人が集まります。価値観も人それぞれ随分異なることでしょう。そう言う色々な人が一箇所に集まるのは教会ぐらいではないでしょうか。  集まりには目的がある訳です。キリスト教会はクリスチャンがイエス様のみ言葉を聞き罪の許しを乞い、新しい力を頂きたいと教会に(私は)行きます。だから集まる目的はイエス様だと簡単に言っても良いのではないでしょうか。そのイエス様はそれまではほかの神がなさらないことをして人々を驚かせました。罪深い人を哀れに思われたことです。イエス様には人に嫌われた病人、取税人、売春婦、貧しくて少額しか寄付できない人、ユダヤ人から嫌われている異邦人、その他の嫌われて当たり前と思われた人を哀れんでお救いになりました。また自分に全く罪が無い人以外は他の人を批判して判断をくだしてはいけない。またユダヤ教のしきたりで口に入れる物に気を使わなければいけないが、毒は口から入れるものではなく口から出す言葉だといわれました。  最近ある本を手に入れて読みました。日本の事を長年住んで学んだアメリカ人が西洋人向けに日本文化を説明している(外国人が日本での失敗を少なくする目的の)本です。色々ある中に、海外帰国子女への偏見、差別、国際結婚をした女性(男性はあまり差別が無いのかな?〕への偏見、差別がはっきり書いてありました。残念な事にそのしきたりは海を越えたここアメリカでも続けて成されているようなのです。LCRは他のところよりもそういう差別は少ないからとよそから来た方から伺いました。でも全く無い訳ではないという事も聞きました。そうやって自分では考えもしないことをした人を非難したり下視する事で自分の気分が良くなる人はそういう行動を行わないと自分の心を喜ばせられないというのが解っていないのでしょうかね。解っていてもやめられない問題をかかえている人なのでしょうかね。偏見や差別は「学ぶ」事で少しづつ取り去る事が出来ます。偏見差別をする人は『自分の学びが足りないことをそういう非難や下視する言葉で示している事を知っているのでしょうか。知らないからやるのでしょうか、それとも知ってはいるけど止められないのでしょうか。  解らない事はつい自己中心に深く考えたり検索したりせずに下視したり非難したりすることで片付けでしまうのが私達の常でしょう。簡単で早いですね。 でもその行動や、言葉がどんな「毒」なのか考えないで言ってしまうのですね。私自身、売春婦の事は全く理解できませんでした。自分はお金が欲しくてもできないからです。無知がそういう人は自分の選択で行っているという自己的な考えで売春をする人を蔑んでいたと言えます。でも仕事でもっと知識が増えてくると、そういう人はわたし達が、親を選ぶことも、日本人として生まれた事も、髪が黒い事も、白人ではない事も、背の高さなども赤ちゃんのわたし達が選ぶ自由がなかったように、売春婦も自分の意思だけでなったのではなくて子供の時からの待遇、環境がそういうように作り上げ、ホモセクシャルの人が選択権がなかったと同じように人間一人の私としてはその人(達)を批判できないことを学びました。 また私は裁判官でもありませんから裁くことは神にお任せします。だから、教会はイエス様の愛と教えを学びに集まる所です。お互いを愛しましょう。「愛する」と言うのは理解しにくい翻訳ですね。むしろ「お互いに仲良くしましょう」の方が分りやすいですね。非難することよりも、非難したい時には『自分はどうしてこう思うのだろう』と自分の心の中を省みて、理解できるように学びましょう。そしてイエスさまの御心に叶う様に努めようではありませんか。それが出来て非難の言葉や差別の言葉を受けるのではないかと恐れることがなく集まる所であるように勤めようではありませんか。 民 Day Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet  人は皆、長じて家を離れて別々に暮らす様になると、 たとえ親子の間柄でも、仲なか本音は聞き憎くなる。ましてや他人が社会生活に於いて、同一人物が同じ事柄を、涙ながらに話し、「貴方だけには本当の事を」と、言ひながら、あちこちの話をつなぎ合わせ、つくろいながらの打ち明け話には、其の人の本音は推察するしか無く、つい、まっとうに受け止めて、うっかり発言をしようものなら後々裏切られて、人間不信に陥ることが多々ある。絶えず本音と建て前を使い分けての話には相手に同情をしながらも、時にわり切れない虚しさを覚える。そして私の「神様ごめんなさい」が始まる。 長年教会に親しみ、み言葉にふれ、忍耐、寛容を学び、「愛を持って、対する相手の目線に合わせて話し、真をつくしましょう」と、人様にはもっともらしく言い、はて私は?出口の無いくり返しの会話には、口実をもうけて早々に話題を変え、知らぬ間に相手を傷つけて仕舞う。気が付き、至らなさを恥じて、主のみ前に許しを乞う身勝手さ、御免なさいの繰り返しの日々は、もう沢山?戦中派と言われ、多感な一時期に学童疎開を余儀なく過ごし、必勝を信じて、空腹を我慢し、上を向いて父母恋しの涙をこらえて過ごした年代が、敗戦より六十年の時を経て、其の連れ合いとは、初期の共通のゴールはほぼ達成して(家、教育、財産)子は親を超えて独立、残された二人は、お互いに新鮮味が無く、会話も少なく、相手に対しての思い遣りも希薄に成って、寂しい想ひをしている。故に女の人は、安易に悩みを友に打ち明ける。過去に培った豊富な経験を、良く生かして、対する相手を思い遣り、本音の付き合いが、出来ないはずは無いと、「神様、ごめんなさい」の失敗の少ない様にと、努力する日々、神様のみ前に衿をただし、祈ることに依ってすべてを委ねる事の出来る幸福を感謝して、過去の想ひを大切に過ごして往きたいと願う此の頃です。   2008年    静江       Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet  2月17日に過ぎ越しの食事の準備を引き受けてから2ヶ月経った。噛めない食物を口に入れてしまったようにそれを噛みこなして飲み込めるようになるのに2ヶ月かかったとも言える。 4月1日までの過程はつぎのようである。 *  インターネットでユダヤ教の過ぎ越しのしきたりを何箇所か調べる。 *  コーシャーフードの情報をインターネットで調べてコーシャー食料店を訪れる。 *  メニューを定めてレシピを印刷する。 *  買い物のリストを作る。 *  料理に必要な器具を集める。 1週間後には印刷した情報を持ってタステインの食料品店に行った。すでに何ページかのシーダーペサ(正式な過ぎ越し祭りの礼式)の情報を持っていたので、それを見せながら必要品の確認をするためである。レジには20代位に見える若い女性が殆ど化粧なしでおり、ヤムカスまたはキッパス(yamulkes,kippahs)を頭にのせた年長の男性が肉のカウンターの後ろにいて父親だろうと想像した。彼女から一番最初に知った事はシーダーの皿が必要でBed and Bath Beyondはユダヤ人が経営者の店なのでそこで買うと良いだろうと言われた。行っているついでだと考えて買えるものは皆買い入れることにして、羊の骨、マッツァ、マッツァボールスープ、甘いワインを買った。しかし後にワインでなくグレープジュースを買うことになったのだが。肉にはチキン、魚、またはビーフブリスケットをすすめられ、これはほとんど情報は一致している。クリスチャンの過ぎ越しに羊を使う理由は私がまだ調査すべき箇所である。 同じ頃、芙美さんは英語と日本語の式文にとりかかり、その式文を見る事を頼まれたので最初は料理だけだと簡単に考えていたのだが、ユダヤ教の礼式を理解する必要があると思われて、印刷したものを、実際の式の様子を想像しながら何回も読み直しするのだがユダヤ人向けに詳細に説明してあるようでも、見た事もない状態を想像するのは簡単ではない。ビデオも買えないわけではないだろうが出費を避けて買わないことにした。式名はヘブライ語で進みそれの意味は書いてあるが言葉を暗記するのも簡単ではない。結果としてはLCRの式文がすでに出来てから、抜けているところがあるのに気づいたのは、私が理解するのに 5週間以上かかったからである。 シーダー専用の皿をon lineでBed and Bath and Beyond で見てみると最低値で100ドル以上もするので、結果としてはE-Bayで新品を購入した。今になってこそ解り始めたのだがユダヤ教は過ぎ越しを年中で第一の大きな祭日として日暮れに始まり夜中まで続く、それで各自椅子には枕を与えられて左に(理由はまだ調べていない)よりかかりながら、話を聞きながら(語り)過ごすのである。これもまだ調べが終わっていないが7日、8日と続けられるシーダーもあるようである。 エジプトから奴隷で苦しむユダヤ人を自由にした神を褒め称え,神が約束したメサイヤが来る日を待っているのである。最近はクリスチャンが過ぎ越しの礼を持つ事が広まりつつあり、ユダヤ教の人が来てやってくれる例もある。ユダヤ教だけに限らずケーターリングで食事をそろえる事も出来る。ホワイトハウスではクリントン大統領の時期以来行われていると知った。私は並みの人間で私の個人が理解した事を述べているので間違いはたくさんあるだろうことを承知しておいてほしい。クリスチャンの過ぎ越しの礼はイエスという救い主-メサイヤがすでに来られていることから、イエスの「最後の晩餐」(それは過ぎ越しの食事であった)に注目して羊として身をささげられた(イエス、聖霊、神)三位一体を感謝することがユダヤ教の過ぎ越しと異なるのだなと過ぎ越しの日が過ぎて三週間経た今やっと理解し始めた私である。理解した時点で言えるのは、長時間のユダヤ教の晩餐はクリスチャンの式には無くて、シンボルである食べ物を祝して食べ、四部に分かれている式の二番目から三番目の感謝の式にすぐ移り、晩餐は省く事が大きな違いではなかろうか。ユダヤ教ではアメリカのサンクスギビングやクリスマス・デイナーに価する豪華な晩餐が第二と第三との間に時間をかけて行われる。 シーダーという意味は「定められた」とか「規則」と訳すればいいのだろうか。家の準備(清潔、掃除など)皿の準備(ポークをのせた事がない皿)食卓の準備,式礼の役を果たす人、リーダーの服の色(白)質問、答えと全部「定められていて」それに従って式は進められる。間違った皿を使う事を避ける為その日専用の食器を使う人もあるようだ。急いで焼くマッツァの中には濡れていない粉があるとすればそれが水にぬれて醗酵することを予防するために水分を食卓や食器から取り除くのに特別の注意をはらうようだ。  4月1日の食事の内容は別紙を見て頂きたい。チョコレート以外は自然の物を求めて、2千年前には無かっただろうと思われるものを使うのは避けた。干し杏など値が高いけれど自然乾燥品を使用した。自然加工品は安くないと言える。苦労話を語るとすれば、ユダヤ教の式は一定しているがクリスチャンの過ぎ越しはそれぞれ違っていて統一していないことであろう。食品も瓶詰めのアップルソース、ホースラデイシュや小麦粉のケーキを使っているのもあった。  出エジプト記の時代にさかのぼり話を語り続けるこの儀式のことを書くには限がない。リクエストがあるならこれに関することをまた書いても良いと思う。 岸野先生にはこれを学ぶ機会を与えていただいた事を感謝します。芙美さん、愛子Gさん、卵の責任の方々、その他テーブルのセットアップをしてくださった方に感謝します。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

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Tweet 過越しの食事礼拝 2009年4月9日 (Maundy Thursday)  ユダヤ人が守っている習慣の中に、過越の食事があります。毎年イースターが近づく頃になると、「過越の祭り」という名称をよく耳にして来ました。いったい どんな食事だろうかと興味はありましたが、一度も経験する機会に恵まれませんでした。今年は幸いな事に、伊藤牧師により、「過越しの食事礼拝」が計画されました。食事は聖木曜日の11時開始です。 食事の全ては伊藤先生が準備され、午前10時前から食卓の用意が始まりました。私にとっては初めての経験なので、何をどう準備して良いのか解りませんでしたが、全て伊藤先生の指示に従い、テーブルのセットが完了し、種入れぬパン、苦菜、ゆで卵、羊の肉、リンゴをすって作られたペースと等が机の上に並びました。いよいよ食事の始まりです。  伊藤先生の司会により、過越の食事の説明が「出エジプト記」を読む事から始まり、ユダヤ人の慣わしに習って、母親役を務める愛子さんが蝋燭を点火され、この家が祝福されるようにと祈りました。そして食事で用いられる食物を伊藤先生が祝福し、第一の杯、感謝の杯を注ぎ、各自に分けられました。過越の食事の間、ぶどう酒の杯が四回廻されます。一つの杯よりぶどう酒が分けられるのは、ここに集う人々の一致のしるしを表すのだそうです。最後の晩餐の時、イエス様はまだ聖別されていない杯を弟子達に廻されたのです。テーブルに着いた私達一同は讃美の言葉を同時に唱えた後、第一の杯を飲みほしました。 それに続いて司会者が手を洗います。キリストは手を洗う事に代わって、弟子達の足を洗われました。これは新しい愛のいましめを表す事であり、また仕えるという新しい律法のあり方を示すためだという事をこの場面から学ぶ事ができました。なるほど、聖木曜日にはよく牧師が信徒の足を洗われるのはこういうことか、と思いました。次に伊藤先生は苦菜を手に取り塩水で洗われました。私達も、個々に準備された塩水に苦菜を浸し洗いました。 ここに備えられた種入れぬパンは、エジプトを出るとき、パンを発酵させる時がなかった事を思い出す為であり、苦菜を食べるのはエジプトの地で先祖が耐えた苦役を覚えるためなのです。「語り手」の説明の後,第二の杯が注がれました。この時に、出エジプト記に記された最初の過越の物語が語られ、最年少の者が伝統的な四つの質問をします。最年少役の広子さんが四つの質問を読みました。1、どうして今夜は他の日の夜とちがうのですか。2、どうして今夜は種入れぬパンをたべるのですか。3、どうして今夜は苦菜を食べるのですか。4、どうして今夜は過越の礼拝をするのですか。これらの質問を読み上げた後、伊藤先生が羊の肉が盛られた皿を高く上げ、これは主の過越の犠牲である、エジプト人を撃たれた時、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、我々の家を救われたのである、と説明されました。次に、種入れぬパンを高く上げ、その説明をした後、苦菜を取り高く上げ、エジプト人がユダヤ人の先祖達に与えた苦役を思い出すのである、と語られました。ハレルヤ詩編を讃美し、食物の祝福をし、第二の杯を飲みます。続いて司会者は種入れぬパンを裂き、食卓の私達に廻します。こうして一つのパンがさかれ、分けられるのは、一致の意味を表していることをここで学ぶのです。そして私達は司会者伊藤牧師の指示に従い、苦菜と種入れぬパンを一緒に食し、「ほむべきかな、天地の造り主、主なる神よ、あなたは戒めによって私たちをきよめ、苦菜を食べるように命じられます。」と唱えます。そして各自が黙祷し、ルカの22章を読み上げます。 これらの説明と儀式が終わり、ここから過越の食事が行われるわけです。 伊藤先生の準備して下さった、「種入れぬパン」、また「苦菜」、「子羊の肉」を皆でいただきました。この他に準備されたゆで卵は「神殿」を表すのだそうです。ちなみにこの卵はイースターエッグとも解釈されるのではないか、と思いました。リンゴをすって造られたペースとは、イスラエル人がエジプトで強いられた苦役、例えばしっくいこねや、れんが作りなどを覚えて、「しっくい」を表すものだそうです。伊藤先生が心を込めて準備をされたこれらの過越の食事を味わいながら、ユダヤの古い習慣を学ぶだけではなく、イエス様が最後の晩餐でこのように一つのパンをさいて、弟子達と分かち合い、杯を廻された事を思い、出エジプト記に記されたイスラエル人の自由と救いを求めての旅立ちと、私達の罪の為に十字架へと旅立たれたキリストの旅立ちを覚えずにはいられませんでした。私達は一同先生の説明を聞きながら、過越の食事を味わいました。そして食事が終わった後、第二のパンが持ち出されました。  おそらく最後の晩餐では、主はこの時にパンをさき、弟子達に「これはあなたがたのために与える私のからだである。」と言われたのでしょう。私達もパンを手にもって主の御名をほめたたえ、パンを食べました。第三の杯が注がれ、祝福の杯に与りました。最後に終わりの杯が注がれ、私達は一同杯を上げて神をほめ、司会者の伊藤先生の祝祷を受け、杯を飲み干し、礼拝が終わりました。この日の為に用意されたハンドアウトには、第四の杯を飲み干すと記されたあと、一番最後に「旅立ち」と書かれていました。過越の食事は、旅立ちの食事でもある事がここで理解できます。ユダヤ人たちは、エジプトから解放され、神を信じ、自由を求めて「旅立ち」ました。私達の罪を担い、イエス様は十字架へと「旅立ち」ました。私達も、毎年灰の水曜日が訪れる度に、復活のイースターの喜びを待ち望むよりも先にしなくてはならないのは「旅立ち」ではないでしょうか。イスラエル人の歩んだ苦役の日々を覚え、キリストの十字架を思い、心を整えると時ではないでしょうか。心を整えて永遠の命へと旅立つ事ができてこそ、初めてイースターの朝、復活の喜びに溢れるのではないでしょうか。食卓を片付けながら、今年のイースターは特別なイースターになりそうだ、と思いながら自分に問いかけてみます、「旅立ちの用意はできていますか?」   芙美Liang 記  註:この日に使われたハンドアウトが欲しい方は、LCR日本語部までお問い合せください。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 神と共に歩いた私の人生  by  よし子 Oster 私は日本人を両親に韓国で生まれました。父は病院の薬局長、母は看護婦でした。父は42、母は35歳でした。母が私を妊娠している間母は大変具合が悪く、医者は母の命を保つ為に妊娠中絶を勧めましたが、母の答えは「NO!」でした。「私は34年間生きてきました。私の赤ちゃんが生きる時です」と言い、私の生後6ヵ月目に35歳で亡くなりりました。父に「母が『No』と言った時なんと思いましたか?」と聞きました。父は「僕には彼女の考えを変える力があったけれど。赤ちゃんに命をあげる事が彼女の唯一の願いであるのを尊重した。」と言いました。「彼女を亡して僕の一部が無くなったけれど、僕には彼女との約束があった。僕は絶対再婚しない、そして子供の世話を立派に果たして誰からも母がないことで指をさされることがないように、僕が母と父との役を果たすと。。」私は素晴らしい父に恵まれて、日本人の乳母たちと家政婦に囲まれて育ちました。父は規則には厳しくても、愛と優しさを与える母と父として育ててくれました  終戦がきて、父と5人の友達は大きいフェリーボートを買い日本に帰ることになりました。合計54人の家族でした。父に「誰がキャプテンなのですか?」と尋ねたら「僕だよ」と言うので驚かされました。キャプテンの免許をちゃんととってあったのです。韓国人の海賊がいると聞いた父は2人韓国人の技師を雇いました。案の定、日本と韓国との中間で小さいボートが接近しました。父は2人の韓国人を呼び、近づいた船の船員と会話すると、ボートは去っていきました。父は2人に「日本に無事に運んでくれたらボートは彼らの所持品として韓国に航海して帰るといい」と約束して雇ったことを幸いといいました。日本に近づくと海に仕掛けられた爆弾を避ける為に夜の航海を諦めることになりました。時にはエンジンを止めてすべることしか出来ませんでしたが、やっと九州の港に着きました。2人の技師に感謝し安全な航海を祈って別かれました。  初めにはおじの家にいましたが、しばらくして父は家を建てて、1948年その家で私が16歳になる直前に亡くなりました。父が死ぬ三日前に、父は私に三つの助言をしました。①いろいろお見合い結婚を勧められるだろうが、それに圧されてはいけない。愛情なしで結婚してはいけないから。②傷つける人に沢山逢うだろうが、決して仇で返してはいけない。取るなら、あなたもそれらの人と同じ位に落ちてしまうのだから。③どんな事があったとしても、常に朗らかにいなさい。三番目の約束を守ることは本当に辛いことでした。けれど何が起ころうと、どんなに辛いことに出くわしても笑顔を保って生きてきました。それは父の助言のせいなのです。  私が働いていたレストランでTomに会いました。彼は優しくて二人とも恋に落ちて14ヶ月後に結婚しました。子供が出来ることは諦めていましたが、うれしいことに懐妊しました。Tomは「よしには良い靴が必要だね。」と言いました。なんと面白い反応だなと思いながら「なぜ?」と聞くと「妊婦は子供の為にも良く歩かなくてはいけないから」と言って上等なウォーキング靴を買ってくれました。なんと思いやりがある人だろうと思わせられました。私のつわりは特別ひどくて、あなたの年で(35)体重減少しているのは体に危険だから妊娠を続けることを思い直すようにと言われました。私の答えは「NO!」でした。そして5ヶ月になってやっと食事を留めていることが出来て体重も増えだしました。そして健康な女児デボラを授かりました。  彼女が6歳の時ナンシー ツーム家の娘がデボラを教会に誘いました。その時点では私は仏教徒、Tom は祖父がエピスコパルの牧師でしたが、教会に通わないキリスト教徒でした。デボラはTom の許しを受けて教会に行って帰ってくると大変幸せそうでした。それが私の好奇心を誘いました。しばらくしてナンシーが私を聖研に誘いました。私はなにがデボラを幸せにするのか知りたくて行きました。皆さんが優しくて、雰囲気の中に何かが存在していて、その日から私の目が開かれました。私はもっとイエスのことを知りたくて英語で学ぶのは大変難しかったですが、行きつづけました。次の年9月に日本人の友人が日本語で聖研を開くとの事で大喜びで参加しました。しばらくすると、私はキリストと仏との一つを選ばなくてはいけないことに気がつきました。父が信じた仏教を捨てることに罪悪感を感じさせられました。でも、キリストは私の罪を背負って死に、心を改めれば神はお許しくださるというのに大きな喜びを得ました。そして洗礼を受けてキリストの家族となりたいと思いました。  娘のデボラも洗礼を受けたいと言いました。Tomに教会を探してくださいと言って探して、Culver DriveのSt. Matthew’s ルーテル教会に決めました。洗礼を受ける前に、Tomが「教会というところは常に美しくスムーズにいくとはかぎらないところだよ。」と私に言いました。「これは私と神とのつながりであって、それはどんな事が起こっても変わらない」と私は言いました。2ヵ月後の、1978年7月23日に洗礼をうけて、 私たちはクリスチャン家族となりました。それから2ヵ月後には会員の半分は牧師に辞任を迫り、後の半分は残って欲しいと言う事が起こりました。私にとっては大変なショックでした。それは私への最初の(キリスト教徒としての)試練でした。牧師は(洗礼をうけたばかりの)私がどう感じているかと案じてくれました。「起こっていることは残念ですが、私には神がそばにいてくれますから」と答えました。  Tomは教会に尽くす事が好きで、また会員からも好かれました。タートルロックでも、アーバイン市にとってもTomはいろいろ援助していたのです。彼の葬式にはユニハイバンドが全員、卒業生でさえも制服を着て参加し演奏をしたのには教会員を驚かしました。すばらしい演奏でした。Tomはデボラやほかの子供の付き添いであちこちの演奏に同行していたのです。  私は今でも自分の父のことを話します。私はデボラも同じに父のことを語り続けてほしいと願います。35歳で今でも彼女は父のことを語ります。彼女の結婚式にはレセプションテーブルの両側にTomへの貢献で盆栽を置きました。Tomは盆栽が好みでした。デボラは現在、彼女の父の神への貢献に従い、テキサスのフォートワースの教会では次の3年間委員長をして尽くしています。  神はなんと私たちの生活を変えてくださったことでしょう?私がクリスチャンでない時でさえ、神は私を見守っていられたのです。私はビジネスのことには無知でしたがTomが時折、こんな時にはどうするか、。などと話してくれていました。Tomが死亡した時、私にはデボラを大学に送る時期、それに義母の世話と会社をマネージする仕事を背負うことになりました。53歳で始めてビジネス業に面することになったのです。けれど神はその私を導いて見守ってくださいました。ジャン パーカーは長年私の聖研の良き指導者なのですが会社に来て支えてくれて、会社を売るまで共に働いてくれました。すばらしい友達、クリスチャンです。  私は13年半未亡人で過ごしました。25年も知人であったダーリーン・オスターが突然亡くなりました。彼女の夫のビルと食事に出かけてダーリンのことを長いこと話して慰めあいました。しばらくすると、自分たちは愛しあっているのに気がつきました。子供たちにも祝福されて結婚しました。それから8ヵ月後に助からないだろうと医者が言うほどの心臓麻痺に襲われました。けれども、多くの方の祈りとビルの献身的な看護で回復しました。神がビルをエンジェルとして私に送られたと信じます。神はいつもおられて、愛してくださいます。クリスチャンであることはなんとすばらしいことでしょう!  (*****この手紙は娘のデボラさんの為に書かれたものをデボラさんの許可 で読ましていただくことになりました。よし子さんのメモリアル・サービスでデボラさんがシェアされました。                                                        訳: 民 Day Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

April 4th, 2011

LCRJM歌壇

No Comments, 証し、その他, by admin1.

Tweet 歩道橋クロスと花は捧げられ癒しを祈るか大事故の場に        山本民子 雨のなき歩道の血の跡なお残り逝きたる人の哀しさ写す 美しき声は神のみ恵みと神のため歌いしパバロテイ主の元に逝かん 復活祭雲ひとつなき青空に気高く咲けり白百合の花    白百合の美しき香りは部屋に満ち主の復活は心に生きる      過ぎ越しの食事の準備の明け暮れに想いを馳せるユダヤの土地に 過ぎ越しは二千年前にも人々を受け入れ招く罪ありてこそ 凄まじき津波の被害を耐え忍ぶ母国の民を誇る毎日            聖堂に讃美歌高く響きくる朝日の中の復活礼拝           鹿島広子 聖堂に天使の歌声愛いらしく友となか良く微笑み合えり 我が友はさよなら告げず召されたり無邪気な孫に涙さそわる 薄命の友に手向けるカーネーション遺影の笑顔は涙を誘う 大津波一瞬にしてのみ込みし尊き命思いておりぬ 冬の朝赤くうるみし空見上げ今日という日を神に感謝す             アカペラの美(は)しき歌声洩れ出るステントグラスに映える落日    蓑輪愛子 我が友の霊慰めん心より歌う「レクイエム(鎮魂歌)」厳かにして 白百合とバラで飾りし十字架の凜として立つ復活の朝 「ハレルヤ」と声高らかに歌いつつ 平和を祈る復活の朝 声合わせ「歓喜の合唱」歌いあげ満足感に我酔い知れぬ 復活の朝の目覚めの爽やかさ声も高らに「ハレルヤ」と崇む 震災で召されし義兄の顔写真柔和な笑顔が涙誘う 我が友は生存せしと名前あり電話掛けども応答は無し 恐れつつ寒き夜には身を寄せて泣く児をあやす年若き母     大橋静江 幸せは限りなく有り我の日日人の災難見て気付き居り 何を捨て何を残すか迷いいて八十路に近き我の屈託 はらり落つ目の前すぎる枯葉にも過ぎ越し日々の物語あり 喜びも悲しむ時も主と共に祈りの日々は命のみなもと         中内豊子 主を信じすべてを託しやすらかに真理に続く道を歩まん 教え子に先に逝くなと師の言葉友の便りに涙誘わる 白百合に紫添えし花を持ち友訪れ来てイースター祝う    Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace