October 4th, 2011

2011年10月2日聖霊降臨後第16主日聖餐礼拝説教「神の国の果実」”Fruits of the Kingdom”岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

マタイによる福音書21章33-46節

「神の国の果実」  “Fruits of the Kingdom”

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなた方の上にあるように。アーメン。

先週の召天者礼拝は本当に素晴らしい礼拝でした。私はそこで、悲しみよりも喜びを、そして感謝の思いで一杯でした。皆さんが心を合わせて神様に賛美をし、神様の約束した神の国は私たちに約束されているんだと確信を持つことができたからです。

さて、今日ここで私の作ったフルーツ・サラダを見てください。バナナ、りんご、パイナップル,オレンジ、イチゴ、グレープ、いちじく、キーウイー、柿、梨、そして、さくらんぼ。おいしいですよ。

イエス様はよく色々なフルーツを彼の話の中で使っています。フルーツは、地面の中で、また葉っぱから太陽の栄養をとってできる神様のギフトです。フルーツサラダの中に沢山のフルーツがあるように私たち一人一人もそのフルーツです。神様から頂いたギフトを持つフルーツです。それは、お花を綺麗に生けることの出来る人、料理の上手な人、庭仕事が好きな人、短歌、俳句、カラオケで満足と感じられる人、新しく来た人の接待が好きな人、献金を数える、記録をする事が自分の気性に合っている人、私たちの中にはこのように神様からのギフトを頂いている人が沢山いるのです。そのお互いのギフトを使って教会の中で神様を賛美が出来ることに私たちは感謝します。全て私たちが出来ることは、神様からのギフトなのです。私たちがお互いにお互いのギフト、お互いの素晴らしさを感謝するところには神様がいつも私たちと共にいてくださるのです

今日の福音書の話は譬え話でその舞台はブドウ畑とその畑の仕事を任された悪い小作人の話です。この小作人、これが都会の人だとしたら、借りているアパートの面倒をみない人です。その人は、アパートに入ったのはいいのですが、家賃を払わない、壁に大きな穴を開ける、そして、許可なしで部屋の中を紫のペイントで塗りつぶす、下水道は詰まったままで水が流れない。出て行って下さいと言っても出ない。最後にはお巡りさんが来て力ずくで追い出すしかありません。

ところが聖書の中での小作人はそれよりずっと悪い。ブドウ畑を収穫の時まで面倒を見るように頼まれたのです。小作人はある程度の収穫されたぶどう、それは全体の20%ぐらいでしょう。それが、小作人の収入で、80%のぶどうはブドウ畑の持ち主のものです。ぶどうの殆どはぶどう酒となります。それが結構いい収入となるのです。

ぶどうの収穫の時が来て、畑の主人は自分の僕を送り出し受け取るべきぶどうを取りに来たのです。しかし小作人は一人の僕を殺し、もう一人の僕に石を投げかけたのです。畑の主人はまた何人かの僕を送ったのですが、この僕たちも悪質な小作人によって殺されてしまったのです。私はなぜ主人がお巡りさんのような人を送らなかったのかと思いましたが,その代わり自分の息子なら軽んじられないだろうと小作人のところに送ったのです。ところが、小作人は「こいつは主人の息子だ、こいつも殺してしまおう。」と。とんでもないことをしたのです。

この譬え話の中で畑の持ち主は神様です。ブドウ畑はイスラエル、雇われた農夫はユダヤ人、僕は預言者そして息子はイエス様です。この譬え話は神様の私たちを赦すことの辛抱強さ、神様の愛、そして不正な小作人をも救いの中に入れたい神様の思いやりです。

私たち人間は、この愛を受ける価値のない者をも愛する神様の愛がよくわかりません。しかし、神様は私たちが神様を愛すること、また、それによって神様といつも密接な関係を作ることを望んでいるのです。聖書の中で、神様に“アバ父よ”と言う言葉がいたるところで見付かります。それは直訳するなら「お父様」、「お父ちゃん」です。私たちがどんなに神様に逆らうような者になっても神様の元に返ってくるように願っているのです。

最後に送ったブドウ畑の主人の息子は雇われた小作人によって殺されてしまいました。これはこの地上のイエス様の最後の時を語ってます。思い出してください。イエス様が彼の人生でエルサレムに入城したとき、群集は、「ホザンナ、ホザンナ、神の名によってくるものに祝福あれ」とイエス様をユダヤの民のリーダーとして迎えたのを覚えていますか。

そのイエス様は同じ週の金曜日にユダヤ人のリーダーによって十字架による死刑の宣告を受けたのです。そのイエス様が救い主として来られ「ホザンナ、ホザンナ」とイエス様を迎え入れた群集は今度は、「十字架につけろ、十字架につけろ」とイエス様を見放したのです。

いまこの教会に来ている人の中には人生の初めから家族ぐるみでクリスチャンとして育った方、人生の過渡期に、神様とはどのような方かと思って教会にこられるようになった方、キリスト教には関係がなかったが、友達になった人に誘われて教会に来るようになった方といろいろな理由でここに皆さんが集まっています。

70年,80年ほどの信仰生活を持って神様に全てを委ねますとはっきり宣言できる人もこの中に沢山いらっしゃいます。キリスト教のABCを教えてくださいと言う方もいます。その中で、私がはっきり言えることは、救いを求める全ての人にイエス様は神様の愛を与えてくださっていると言うことです。

今日の福音をもう一度21世紀にい来る私たちにどのように拘わるかを考えて見ましょう。

私たちは神様から送られるメッセージ、そしてメッセンジャーに耳も心も開かないことが沢山あります。あるいは送られたメッセージが、私たちを良い方に向うようにとの良い意味でのアドバイスだとしても、心の中がもやもやしている時には、「ああ、あなたのアドバイスなんていらない。私をほっといてください」ということがあるでしょう。

私の場合、その神様から送られたメッセンジャーの#1は家内のナンシーです。言葉を濁さず、私を観察して思ったことをズバット言います。「どうしたの、何でそんなに落ち込んでいるの。自分で自分が落ち込んでいるのを楽しんでいるみたいで、おかしいよ。何か心配事があるなら、私に話してよ。私はご飯の用意をするだけの奥さんではないのよ。本当に心配事、悩み事があるならイエス様にお祈りしているの? していないでしょう。あなたの態度、その傲慢な態度でどうして教会の牧師の勤めが果たせるの」と。それを何回も何回も繰り返して聞いているうちに、一人にしておいてくれと怒鳴ったこともあります。もっとも、そのすぐ後で、まずいことをしたと反省するのですが。教会の会員さんからも言われることがあります。どういう訳か私は、悩み事がある時、自分の心の中に思っていることが顔に出てしまうらしい、「先生どうしたの、大丈夫、」と言われて、「何ともない。大丈夫」と答えても、まだ心の中でのもやもやは続くのです。

牧師は信徒の前で模範でならなければならないと言われますが、模範のような顔つき、態度もあっても、そこに心がなければ落第です。しかし、牧師でも、信徒でも、同じです。同じ人間です。私の足りないとこを神様は知っています。それでも私を愛してくれる、それが神様、私の家族、それはこの教会の方々すべてを含みます。私たちはお互いを助け合うことを神様から命じられているのです。お互いを親切に、心からの言葉を持って、私たちの兄弟、姉妹と呼べる関係を築いていきましょう。

ブドウ畑はこの世で私たちが一緒に生活するところです。神様は私たちからこの世に住む私たちの支払いを期待しています。その支払いは何でしょうか? それは今日の説教の初めにお話した神の国のフルーツといわれるものLove愛、Compassion あられみ、Peace 平和、Trust 信頼、Encouragement
励まし、Courage 勇気、Prayer 祈り、Forgiveness 赦し、そして Repentance悔改めです。これらのフルーツを私たちの生活の中で分かち合い、お互いを助けて生きていけるようイエス様の導きが皆さんの上にありますように。アーメン。

 

 

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