October 17th, 2011

松井誠史夫妻金婚式(信仰の大先輩)

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結婚50周年記念日によせて                                                               

私の生い立ちから紹介します。 私は、父母が1925年に祖父の呼び寄せで渡米し、ロサンゼルス近郊の北ハリウッドで野菜を主とする農業を営んでいる時に第六児として生まれました。6歳の時、祖父の死去の知らせを受けた父は、大家族を連れて日本に引き上げました。その年に第二次世界大戦が勃発し、貯えた預金もインフレの為に失い、父は苦労の連続でした。10人の子供達の教育から、生活環境の相違の調節や反米感情による苦しめ等、小学校時代は日本人並みに生活する事は大変でした。同年代で同じような経験をされた方達には理解できると思います。

 終戦後、民主主義が唱えられ、中学校、工業高校に学びました。その後、父の友人で国会議員だった方の紹介で、大阪にある中小企業の会社に入社し、日本での経営方法、人と人との関係を学び、大変良い体験でした。(1953-1954年)1955年、21歳の時に米国に将来の夢を託し、父の友人に保証人を頼み、400ドルの借金をして帰米しました。日本を離れる二日前、父母から米国で生活する為の心得を聞きました。「アメリカでは生きる力を失っては駄目です。金銭は天から降って来ない、まじめに働けば必ず結果が出る。多民族の集団だから宗教心がなければ生きて行けない。困った時には牧師さんに話をして相談しなさい。」父母からの言葉は今でも遺言として頭に残っています。父母は佛教信者でありながら、どの宗教を信じなさいと指示はしませんでした。

 年後、弟が永住を決意して帰米して来ました。当時は不況で仕事が見つからず、町の工場で働きました。ある時、仕事で宣教師と出会い、アメリカの宗教であるキリスト教を勧められました。日系の佛教会に通っていましたが、弟が言うにはあまり感動がないということで、試しに二人で行ってみようと、日系のキリスト教会、センテナリーメソジスト教会に行きました(1960年)。当時、日本語部120人、英語部800人、合計920人の、全米第一の教会でした。人種差別は無く、日本いる思いがしました。私自身、キリスト教についての知識は全くのゼロであり、何から始めればいいのか解りませんでした。出席回数を増やすごとに、信者達、また牧師先生との交わりが出来るようになり、日本で言われている「神」とキリスト教で信じている「神」との違い、また「救い」の説明や、様々な事を教わりました。全てが神様から示されたという思いで、悔い改め神にすがり、信じるようになりました。1961年、神様の導きだったのではないでしょうか、それまでは、信者から2-3回洗礼を勧められていましたが、キリスト教を良く理解してからにしますと断っていましたのですが、M牧師から「イースターに洗礼を受けてはどうか、キリスト教については、また信仰については洗礼を受けてから聖霊が働きます。これは信仰の始まりであり、永遠のもので、卒業ではないのです、神は祝福してくれるのです」と言われ、洗礼を受ける決心をしました。そしてその年のイースターに10人の兄弟姉妹とともに洗礼を受けました。感謝でした。

その年の8月に、3ヶ月の予定で日本に行き、1961年10月18日に 両親の世話により家内の昭子と結婚しました。家内を連れてアメリカに帰って来た時、教会ではまるで10年来の友達を迎えるかのように家内を歓迎してくれました。青年会で特別集会を開き、歓迎会をしてくれたときは、感謝と祝福で一杯でした。1962年、M牧師が礼拝後にアパートに訪問され、家内にも洗礼を受けるように勧めました。家内もキリスト教の事は殆ど何も知らなかったのですが、これからの人生を神様に委ねると決意し、その年のイースターに洗礼を受けました。家内は日系人の教会で、日本語にも不自由しなかったので、同じ立場の人達と一緒に淋しくなかったと思います。主が働いていたのでしょう。

1968年、兄弟共同で植木業を始めようと思い、庭園業の経験を基盤に、オレンジ郡に移り、6エーカーの借地をし、準備にかなり時間がかかりましたが、2年位かけて商品になる植木ができるようになりました。忙しくて教会は休みがちになりました。その時働いていた教会の方が、「松井さん、神様があなた達を呼んでいますよ、教会の家庭集会に来ませんか?」と誘ってくれ、出席しました。その時、神様のみ言葉に感動しました。当教会の牧師先生は私達のことを覚えて、週に一度、午前中仕事場にお祈りに来てくださり、感謝でした。子供達がイエス様の愛を学ぶ為にと、サンデースクールに行く事にしました。それと同時に礼拝に出席し、日本語部は16名でしたが、良く祈り、愛に満たされた教会だと思いました。弟の家族と一緒に、アナハイムフリーメソジスト教会に転会し、主の為に奉仕できることに感謝しました。

 植木業経営も20年位経ち、気候と時代の景気に左右されて浮き沈みが激しく、心の落ち着く事はなく、ただ平安を得る事が出来る場所は教会以外にないと思いました。三人の娘達も成長し、キリスト教の教えを土台に人生を歩み始めました。仕事が出来るようにしっかりと教育を受け、社会の為に役立つようにと育てました。結婚しても主が第一であり、神の恵みに感謝できる、そのような家庭を築く事を願いました。

 1992年、我が家族にも肉体的試練が与えられました。昭子が突然ストロークになり、言語障害を起こしたのです。不思議にも、教友の祈りに支えられ、三日間入院しただけで退院し、三ヶ月で直りました。その年に、T牧師の愛の言葉によって、復活ルーテル教会に転会しました。

 1999年11月11日夜7時、私はストロークで半身がしびれ、その上医師の診断によってハイコレステロールが原因で前立腺癌であることがわかりました。2ヶ月休暇を取り手術をしました。当時、余命5年と言われましたが、教友の祈りにより、現在丸11年生かされて、感謝です。

 2008年、昭子は自動車事故に遭い、それによって直径3㎝位の脳腫瘍が発見されました。頭にドリルで穴を開け、膿を出しました。教友の熱い祈りによって、癒され、言語障害もなく元気になりました。神様のなさる事は人知では計り知れないと思い、感謝で一杯でありました。

2011年12月6日現在、結婚50周年記念日を迎え、3人の娘も結婚し、家庭を築き、それぞれの娘達から一人ずつ孫が与えられました。この孫達が主に守られながらキリストの教えを身につけ、健康で成長して行く事を祈るばかりです。このような的外れの私達夫婦にも、苦難のときも喜びのときも、三位一体の神様はいつも私達の側に居てくださいました。復活のキリストを信じるこのルーテル教会の牧師先生達を始め、教友達の励ましのお祈り、今日まで生かされている恵みと喜びに感謝します。皆様の上に主の祝福が豊かにありますように祈って止みません。先ずはお礼まで。 2011年12月7日  松井誠史

 

 

 

 

 

 

 

 

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