March 13th, 2012

2012年3月11日四旬節第3主日聖餐礼拝説教「神は乱れた家を好まない』”God Doesn’t Want a Messy House” 岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

ヨハネによる福音書 2章13-22節

私たちの父なる神から、恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン。

今日の福音書はイエス様が、イスラエルの首都であり、またユダヤ教の一番大切な神殿のあるエルサレムに、過ぎ越しの祭りの行事に参加するためにやってきたと始まります。過ぎ越しの祭り、それを英語ではPass overですが、これはユダヤ人にとって一番大切なお祭りです。

アブラハムの子孫であるユダヤ人たちは、昔、神様から与えられたイスラエルの土地から飢饉を逃れるためにエジプトの地に移りました。初めはこの外国の地の中で平和に生活ができたのですが、400年の長い間住んでいるうちに、ユダヤ人はエジプトに住む外国人として人種差別を受けるようになり、奴隷として働かされたのです。男は煉瓦作りのような労働、女は農耕作に借り出されたのです。

しかし神様はモーセをユダヤ人のリーダーとして選び、エジプトの王様にユダヤ人をイスラエルの地に帰らしてくださいと頼んだのです。奴隷がいなくなるとは働き手がいなくなることですから王様はユダヤ人がエジプトから出ることを否定したのです。神様は十の災害、それは、川の水が血に変わること、蛙の災い、蚋の災い、アブの災い、疫病の災い、腫れ物の災い、雹の災い、蝗の災い、暗闇の災い、そして最後に男の初子の災害を送ったのです。これら一つ、一つの災害がエジプト人に押しかかった時、そのたびに王様は「こんな災害があってはたまらない、お前たちユダヤ人は出て行け」と言ったのですが、ユダヤ人たちがエジプトの土地から出ようとした時に、王はひらきなおって、「いや、お前たちはここを出てはいけない」と引き止めたのです。それが9回続いて、最後の初子を襲う災害の前に神様はユダヤ人にこう命令したのです。

「あなたたちは傷のない子羊を殺し、その血をあなた方の家の戸に塗りなさい。そうすると血の塗られている家の戸があるところには災害がはいらず、そこにいた男の赤ちゃんは救われる』と。それをしなかったエジプト人の家にはこの死の霊が入ってきて男の赤ちゃんの命を奪ったのです。なんと怖い、きみの悪い話ですが、神様の言葉を守ったユダヤ人の家には、死の霊が入ってこなかった。これを「過ぎ越しの祭り」としてユダヤ人は今でもこの習慣を覚え、神様の恵みを感謝しているのです。

イエス様の時代にはすべてのユダヤ人に過ぎ越しの祭りをエルサレムで経験することが義務ずけられていました。ルカによる福音書2章によると、イエス様は毎年家族と共に、過ぎ越しの祭りにナザレの町からエルサレムに行っていました。片道だけで70キロほどの道のりを5人の兄弟姉妹もマリアとヨセフと共に埃だらけの道を歩いて行ったのです。過ぎ越しの祭りを終え、ナザレに帰る途中イエス様の両親がイエス様がみんなと家路の中にいないことに気がつき、エルサレムに帰ってみると、イエス様は会堂の中でラビや律法学者と共に聖書の中に書かれていることに討論をしていたと書いてあります。マリアとヨセフはこれを見て、イエス様は本当に神様の計画の中でこの世に送られたものと感じたに違いありません。

さてイエス様の時代に行われていた過ぎ越しの祭りの様子はどのようなものだったかを聖書の言葉の中で考えて見ましょう。ユダヤ人は神様から選ばれたアブラハムをイスラエルの家長としてイスラエルの地に送り、何世代もかけてユダヤ人の国、イスラエルを築きました。しかしイスラエルに何年にも亘っての飢饉が襲い掛かり、エジプトの国まで食料を買いに行ったのです。

これまた長い話になりますが、ヤコブと言う12人の息子を持つユダヤ人、この人はイサクの双子の一人ですが、そのうちの11番目の息子、ヨセフは何時も「私は父ヤコブに一番愛されている」と自慢をしていたことから兄弟たちに嫌われ、ある日穴ぼこに落とされそこで死にそうになっていた時、らくだの商隊に助けられ、エジプトで奴隷として売られたのです。しかしこのヨセフは夢を解読できる能力を持っていたため、たまたま悪夢で悩まされていたエジプトの王様の夢を解読することによって、今の農林大臣のような位を授けられたのです。

聖書は読めば読むほど面白い。と言うのは聖書の中の物語を読むことによって神様の私たち、それはユダヤ人だけでなく、すべての人間に対しての愛を感じることができるからです。しかしそのことが良く分からない、ですから分かるまで教会の礼拝には出席しますが、洗礼を受けるのは今ちょっと待ち、よく分かるようになったら洗礼を受けましょうという人が多いのです。

それは皆さん自身が決めることでこちらから、どうのこうのと言うことはありません。しかしこれだけ知ってください。私たちは神様と神様からの救いの約束というものが良く分からなくても、イエス様に従うとは、神様であるイエス様を信頼し、神様から本当に愛されているものであることを知ることです。

イエス様への信仰は、神様と私という個人的な関係の中で生まれると言われて最もですが、イエス様への信仰は、イエス様を信じる人たちの関係に私たちが結ばれることにより生まれてくることもあるのです。

さて過ぎ越しの祭りの話に戻ります。神様がエジプトで奴隷として何百年も暮らしていたユダヤ人がモーセと言う神様から選ばれたユダヤ人に導かれてエジプトから出る記事が旧約聖書の出エジプト記と言う章の中で書かれています。十回に渡る災害を受けたエジプト人、エジプトの王様はとうとうユダヤ人にエジプトを出て行ってもいいと言い渡しました。しかし、過去に、この王様が何時も心変わりをして、ユダヤの民をエジプトから出させてくれなかったということが多く続いたため、モーセは王様の心変わりがおこらない前に速やかにエジプトを出ようとユダヤ人に伝えたのです。しかし食べ物は旅にとっては必要です。とにかくパンを持っていかなければならない。しかしパンを焼くその時間も惜しい。だからパン種を入れないでパンを焼き、それを持って、急いでイスラエルの地に戻りましょうと、そこにいた何千人、何万人、あるいは何十万人のユダヤ人を引き連れてユダヤの地を目指し出て行ったのです。ところがある所に来た時、そこに川があった。そこには橋など架かっていない。エジプトの川ですから、そこにはワニもカバもいたでしょう。私が思うにそれはRed sea と呼ばれたところだったでしょう。さてどうやってここを渡ろうかと考えてきた時、後ろを振り返ってみると、エジプトの兵隊たちが、馬に乗って近づいて来たのです。またエジプトの王様は心変わりしたに違いがない。どうしたらいいだろうかと考えている時、モーセは同胞のユダヤ人にこう言いました。

「あなた方は恐れてはならない。落ち着いて、主が今日、あなた方のためになされる救いを見なさい。今日、あなた方はエジプト人を見ているが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう」と。モーセは主に命じられた通りに杖をあげ、手を海の上に差し伸べてそれを分け、それによって、イスラエルの人々に海の中の乾いた地を進むことが出来るようになったのです。

ユダヤ人がこの水を通り抜けた時、エジプトの兵隊たちが川の向こう側までやってきました。川の水が、せき止められているのを見て恐ろしさを感じたのですが、そこに入っていきました。しかし、水は元に戻り、兵隊はみな水死したのです。このところはCharlton  Heston と言う映画俳優がモーセの役をした十戒という映画を見て思い出している方も多いと思います。さてユダヤ人はエジプトから脱出ることが出来たのですが、その後まだ40年にわたってシナイ山のある荒野の土地にとどまらなければならなかったのです。その理由は、何世紀にもわたってエジプトの土地で生活してきたユダヤ人は彼らの土地をほかの民族に占領されていたからです。しかしこの荒野の時代に、神様はモーセを山上に呼び、そこで十戒というユダヤ人が守るべき戒めの戒律を受け取ったのです。

さて今日の福音書に戻り、イエス様はエルサレムの神殿の所で生贄の捧げ物として売られていたところや、外国のお金を両替していたそのテーブルをひっくり返して、怒りながらこう言ったのです。「これらのものを持ってここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」。 

ユダヤ人は神殿で彼らの救いのため、神様にささげ物をする習慣がありました。しかしそれらのささげ物となる動物、鳥などを遠いところから持ってくることはできなかったので、神殿のあるところで、両替所、また、神様に犠牲としてささげる、牛、羊、ヤギ、山鳩などを売る所が出てきたのです。それも神殿のまん前でそこが騒がしい所、うるさい所と変わってしまっていたのです。神殿はユダヤ人にとって祈る場所であり、イエス様はこの乱れた神様の家を見て、憤りを感じたのです。だからこそ、イエス様は縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金を撒き散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに、「私の父の家を商売の家としてはならない」と叫んだのです。

私の父の家と呼ばれた神様の神殿、また私たちの教会、礼拝をするところで、イエス様との祈りによる対話、賛美、聖書を読むこと、そして神様に従う私たちになれるような態度以外の思い、行動は慎まなければなりません。もちろん、赤ちゃんが泣くとか、心に重荷のある人が、泣き出すこともあります。しかしこれは例外です。あくまでも礼拝は私たちが、イエス様、神様との対話の時であり、その中で神様の霊を感じる、受ける時です。

最後に、わたしがイエス様とユダヤの宗教のリーダーが衝突した理由が分からないわけではありません。イエス様が、「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる。」とユダヤのリーダーに語った時、律法学者、祭司、ユダヤの宗教を司どる人達は何と生意気なことを言うやつだと思われたに違いありません。しかしイエス様の三日で神殿を立て直すという言葉は後にイエス様が十字架にかかった後、三日目によみがえると言うことはその時、誰も分からなかったのです。

私たちの体にも精神にも、同じように神様の聖霊が入ってくることがあるのです。今すぐに本当に神様が私たちの体、心に入るのですかと疑問を持つ方もいられるかもしれませんが、それは信仰生活の中で私たちが、感じることこそ奇跡です。私はイエス様の聖霊に触れました。今神様が私と共にいらっしゃることを心の中で感じています、信じます、と言う時がイエス様を慕う私たちの生活の中で何回も、何回も感じられるようになるのです。それこそイエス様を信じる、イエス様を神様と認める私たちにとって喜びであり、慰めであり、これからもイエス様に支えながら生きていこうという信仰に燃える私たちになることができるのです。

信仰をどのように定義するのは難しいのですが、イエス様を信じ、イエス様に従う生活の中で私たちは何回も、何回も、何回も、何回もイエス様、神様の恵みと救いの経験を私たちの人生の生活の中で知ることができるのです。どうか、主イエス。キリストの霊が、皆様と共にありますよう。アーメン。

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