ヨハネによる福音書12章20-33節『もし種が死ぬなら』”If a Seed Dies”
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなた方にあるように。アーメン。
私は、1970年に高校の交換留学生として一年間Redding という北カリホルニア州でホーム・ステイをしました。北カリホルニアはこの南カリホルニアと気候も、文化も、政治的にも色々な違いがありますが、私の住んでいたところは、夏が100度を越す日の多い、また冬は30度のような日が続くところでした。しかし空気も、水も綺麗で,本当に自然に接した生活の所でした。水の澄むサクラメント川はオレゴン、アイダホ、ユタ州からの雪と雨でいつも豊富で、水についての問題は南カリフォルニアに比べたら贅沢なほど恵まれています。
今日の福音書を読んでいた時、特に、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言う言葉が、ああこれはまさにサクラメント川を遡る鮭salmon と同じではないかと思ったのです。
ホームステーをしていた家のご主人のJerry Tuckerさんに面白いものを見せてあげると誘われて行き着いたところはサクラメント川が木の枝のように分かれていたところにこれは、私にとって初めての経験だった、鮭の川登の姿でした。それも何百匹もの50センチから1メーターあるよう鮭たちが川上を目指して一生懸命泳いでいた姿です。これらの鮭はこの川、サクラメント川で生まれたのです。サクラメント川は、San Francisco 湾まで流れていますから、川だけで300マイルの逆流を泳いでくるのです。時には川を泳いでいると言うより、跳ね上がりながら上流をめざしているのです。しかし、その旅は、鮭にとっては、大変な苦労が必要なのです。川上に向けて泳ぐのは大変な労働です。ダムのあるところではコンクリートによる人工の階段が作られていて、そこに川の水が流れています。鮭はその階段を一つ一つは跳ねながら、と言うことは体が傷だらけになりながら、上のほうに登って行くのです。
鮭は自分の生まれた川に戻るのはそこで雌は産卵し、雄が受精させるためです。でもどのように自分の生まれ故郷の川にもどることができるのでしょうか?鳥にしても、蝶にしても、migration と言う北から南へ、または南から北へ、西から東に、東から西にと何千マイルの距離を旅する姿を見ると、これは神様がこのようにすべての生き物に生活の知恵、いやそれどころか、生きるため、命を次の世代に続けてゆく中に計り知れない恵みを感じます。
親の鮭は自分の故里の川に戻ってくる前に5年ほど海で生活してきたのです。鱒も鮭との親戚と呼ばれていますが、鱒は海に出ては行きません。鮭は自分の生まれた川のに匂いを覚えていると誰かから聞きましたが、それは本当です。生まれたその川に成長して帰ってくるのです。どうして自分のふるさとの川が分かるのでしょう。日本では鯉の滝登りと言うことを聞きますが、鮭も川の上流にたどり着いた時にはもう体が傷だらけです。雌の鮭は何百、何千と言う卵をここまで無事に自分の体を犠牲にしてまで、産卵しようという川の水の清らかなところで、鮭として最後の仕事をするのです。
オリンピックのマラソンでゴールまで走り続けることができた選手がゴール・インしたその時すべての体力を使い果たして地面に倒れるように、鮭も産卵、受精させた後の姿は傷だらけ、最後に起こることは次の新しい生命が続くように死ぬことなのです。死ぬことによって次の新しい命が続くのです。もう何百万年以上も前からこのように動物、鳥、魚、昆虫、そして私たちも神様から命をいただき、次の命にバトンタッチするまで、一生懸命生きることを求められているのです。そして今、私たちは神様によって生かされているのです。親から頂いたこの命は何千年,何万年いやそれ以上に続けた命と考える時、私たちは神様の御心がなんと偉大で、素晴らしい、それは神様しかできない計画と思えるのではないでしょうか。
皆さんの中で、「私はいったい何故この世に生まれてきたのだろう」と思われる方、それは私を含めていると思います。私が生まれたくて生まれたわけではありません。しかしここにも神様の私たち一人ひとりに対しての愛が注がれているのです。岸野先生、どうしてそんなことあなたは分かるのですか?と質問されるかもしれませんが、私にとってそれは理屈で考えられることではなく、神様を信じる信仰の中から出てくる私の確信です。
今日の福音書の記事はイエス様が十字架にかかって死ぬ6日前のことです。ユダヤ人たちはこの週にユダヤ人の先祖が、なんとか無事に奴隷として働かされていたエジプトを出てイスラエルに帰ってくることができた、それを思い出し、神様への感謝をこめてのお祭りです。エルサレムはユダヤの方々から、また外国からの人たちでいっぱいでした。その中で二人のギリシャ人がイエス様の弟子のフィリポとアンドレを通して、イエス様にお会いしたいとの願ったのです。その時のイエス様の答えは「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
私がこの説教の初めに皆さんにお話した、鮭の話と一粒の種の話は行き着くところが同じではないでしょうか。一粒の種が畑の地の中に入れられた。それは葬られたと言うことです。死んで葬られた種はよみがえって新しい命を得、そこに若葉、新しい命が出てきたのです。
植物学者によると、すべての種には胚がついています。その胚には電気のスウィッチの “ON” “OFF” のような機能がついていて、ある一定の温度になると種は寝ていた状態から起き出し、成長するようになるのです。勿論そこに水分も必要ですが。種の殻の中で死んでいたような種が殻を割り、根を張り、地面から出てきて、まるで生まれたばかりの赤ちゃんが始めての呼吸をすることでこの世に出てくるのです。
St. Francis of Assisi と呼ばれている人の名前を御存知の方いると思います。この人は平和のための祈りと言う中でこう書いています。”It is in giving that we receive; it is in dying that we are born again.” 「私たちはあげることにより、受け取り、死ぬことのよってよみがえるのです。」
つい最近私に家の玄関の上の柱に小鳥が、巣を作り始めました。雀の大きさですがお腹が赤い鳥でよくピーチク・パーチク鳴いています。少し離れたガラージの軒下では、毎年山鳩のカップルが、これまた何年も前から出来ている巣に戻ってきました。新しい命をそこで誕生させるためです。
オレンジの花が満開で、ミツバチが、花の蜜と交換におしべの花粉をめしべの先につけている。ここにもまた神様の創造した生き物、それは動物にしろ、植物にしろ、鳥にしろ、虫にしろ、神様がこの地球の中で、素晴らしいものを、私たちに見せてくれているのです。そしてこれらすべてを下さっているのは創造主であるわたしたちの神様です。
信仰を持つ私たちは、恵まれています。私たちはこの世で死んでも、永遠に続く命を神様の国で与えられていることを確信することができるからです。
どうか主の恵みと祝福がこの受難節とそれに続く復活節にあなた方の上に豊かにあるように。アーメン。