マルコによる福音書15章1-37節
「パッション・ウイーク」とはなんですか?
私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン。
今日は教会の暦で枝の日、または英語からの直訳で、棕櫚の日曜日と呼ばれています。今日から来週の復活祭にかけてクリスチャンにとっては一番大切なHoly week、あるいは、Passion week とも呼ばれています。
しかしイエス様と共に神の国の伝道に携わってきた12弟子にとってこれほど憤を感じた、希望を失った、また悲しみと絶望の思いにしたった時はなかったでしょう。かれこれ3年間、イエス様と共に行動をしてきた弟子たちはエルサレムに上り、そこで先祖が毎年守っている過ぎ越しの祭りに参加するのは当然と思っていたでしょう。イエス様は今までに群集に神様の国について語られてきました。それは一番貧しい、肩身の狭い、心の貧しい者こそが最初に神様からの愛の対象になるというのです。それて神を愛するとはお互いを神様の精神を持って会い、助け合うことだと教えられたのです。生まれがどうのこうの、どれだけ財産がある、教養もある、学歴もあるはイエス様、また神様のもとでは “So what”、大切なのは隣人を自分が自分を愛することができるように愛し合いなさいと言うことです。
12弟子の中にはまたユダヤの愛国心に燃え、ユダヤ人の国はユダヤ人で治めたいと思っていたそういう人が何人もいたはずです。それらの弟子は、熱心党という独立開放派との関係を持っていただろうし、イエス様が政治的な解放者であることを望んだのです。しかしイエス様はユダヤ人の開放は政治的より、罪からの開放、神様からの恵みに満ちた人生をお互いがお互いを助け合う中で、神様からの祝福を受けながら生きるということこそが救いであると教えられたのです。
ある人が私にこう言いました。「神様が全能の神様であるならば、何故神様の力でローマ人を追放し、ユダヤ人が将来ずっと平和で幸福な国として続けることをきめなかったのですか」。神様はそれができる方であるのですが、それでは私たちは操り人形と同じです。そうではなく、神様は私たち一人ひとりに神様の愛を心の中に育て、その愛により、世界が一つになってお互いを助け合う世界を願われているのです。
イエス様はユダヤの宗教家によって有罪の判決を受けられました。群衆もそこに加わって、Crucify him, Crucify him と叫んだのです。ユダヤ人は死刑の宣告を出すことが法律で禁じられていましたから、ユダヤの地でローマ帝国の総督であったポンテオ・ピラトの下にイエス様を有罪として処刑するように求めたのです。初め、ポンテオ・ピラトは処刑の宣告を断りましたが、それをしないあなたは私たち味方ではないと言われ、イエス様を十字架による処刑との命令を出したのです。
毎日曜日の礼拝の中で、皆さんと共に宣言する、使徒信条の中にポンテオ・ピラトの名前が出てきます。「主は聖霊によりて宿り、乙女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトの元に苦しみを受け、十字架につけられ、死に葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちより甦り、天に登り全能の父なる神の右に座したまえり」
はっきり言って、イエス様を十字架に送ったのはポンテオ・ピラトだけではありません。私たち一人ひとりも神様からの戒律、特に十戒の一つでも破る時、それは大きな罪でも、小さな罪でもイエス様の前では同じで、神様から裁かれるはずなのです。しかしここにキリスト教での大切な神様の愛が法律、戒律をのり越えて、私たちに与えられているのです。イエス様ご自身がすべての人間の罪を背負って死んでくださったのです。
私たちの罪を背負って死んでくださったイエス様は、私たちを赦し、救い、正しく生きるようにと聖霊に導かれて生きる人生を約束されているのです、最後に、次の言葉を聴いてください。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
イエス様は私たちに祝福された王国を約束されているのです。しかし、それは私たちが思っても見なかった姿で来るのです。その国には国境がありません。ユダヤ人とか異邦人と言う差別もありません。その王国では肌の色の違いも人の差別の対象になりません。アメリカ人、ロシア人、日本人、ドイツ人、中国人、アラビア人、ブラジル人、と世界のいたる国の人たちも皆平等です。その神様から私たちに約束されている王国は終わりがなく続く天国です。私たち一人ひとりが行き着く永遠に続く神様の国です。
この受難節の最後の週に、イエス様をめぐっての沢山の出来事があります。この週にイエス様は神殿を清めました。また、イエス様はこのユダヤの神殿が、外国人によって倒されることを予告したのです。確かに紀元後66-70年ごろにイスラエルのに建てられた2回目のエルサレムの神殿が破壊されました。この週にイエス様は弟子たちに迫害が襲い掛かることを語りました。この週にユダヤの宗教のリーダーによりイエス様が逮捕される。それは、イエスさまが、弟子の一人であるユダにより裏切られたからです。イエス様は、弟子たちと最後の過ぎ越しの祭りを祝い、その過ぎ越しの祭りの儀式をイエス様が私たちといつも共にいるという聖餐の儀式に変えてくださいました。ペテロが鶏の鳴く前に3度イエス様を知らないと言われました。
イエス様はローマの総督の命令で鞭打たれ、自分がかかる十字架を背負ってイエス様は十字架につけられる、イエス様は7回短い言葉を十字架の上から語られました。一つの言葉を見てみましょう。これは4つの福音書から出てきた言葉で、最初に、「父よ、彼らを赦してください。なぜなら、彼らは何をしていいかわからなかったからです。(ルカ23:43)死んだイエス様の死体をヨセフという人が受け取り墓に入れた。これでイエス様の生涯が終わりとなると思われたのです。
2番目の言葉は、「あなたは今日わたしと共にパラダイスにいます。」(ルカ23:43)しかしこれがイエス様の最後でないことは皆さんが御存知のとおりです。来週の日曜日はキリスト教会で一番大切なイエス様の復活日です。その前の金曜日はイエス様が十字架にかかってなくなった日でした。しかし全能の父なる神はイエス様を甦えらしてくださったのです。アーメン。
3番目の言葉は、「そこにあなたの子がいます」「そこにあなたの母がいます」(ヨハネ19:26-27)の言葉で、イエス様が、弟子のヨハネにはマリヤを支えることを依頼したのです。これによりヨハネがマリヤを引き受けることになったのです。
4番目の言葉は「わが神、わが神、どうして私をみすてられるのですか」(マルコ15:34)これは、罪人の裁きを受けたことを表す叫びの声です。
5番目の言葉は、「私は乾いている」 (ヨハネ19:28節)で、イエス様は、これを言ったことで、聖書の言葉を成就したのです。
6番目の言葉は、7番目の言葉はイエス様が「すべてが終わった」と言って、イエス様が旧約の言葉に従って死によるすべての信仰者に罪を赦す技を完成させたと言う意味です。
そして最後の7番目の言葉は、「父よ、私の霊をあなたのみ手に任せます」と言って息を引き取ったのです。
イエス様の遺体はアリマタヤのヨセフと言う人がポンテオ・ピラトの元に行き、死体を要求し、岩を掘って作られた墓に収め、墓の入り口に石を転がして閉じたのです。
この時点でイエス様の甦りを信じていた人たちはどれだけいたでしょうか。しかしこれも旧約聖書の中にすでに予言されていたのです。
3日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、父なる神の右に座したまえり。イエス様の甦りがなくては私たちの信仰もむなしいものです。しかし聖霊によりて私たちは神様から信じることができる霊、Spiritを受け継ぐことができるのです。アーメン。