April 26th, 2012

2012年4月15日復活後第2主日聖餐礼拝説教「信仰を持つとは?」”What Does It Mean to Have Faith?”岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

ヨハネによる福音書 20章19-30

「信仰を持つとは?」”What Does It Mean to Have Faith?”

私たちの父なる神および主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン。

今日の説教を始めるにあたって、信仰とは何かという質問を皆様に答えていただきたいのです。(皆さんからの答えを聞いてみる)私の英和辞典によると、信仰は英語ではfaith で、信頼、信念とも訳されています。また、信仰は、希望、そして愛と共にキリスト教の3つの大きな徳の一つと言われています。聖書辞典によると信仰の定義は聖書の言葉から出てきます。ヘブライ人への手紙、11章1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見えてない事実を確認することである」と書かれています。また私の信仰と言うものの聖書以外からの定義では、「信仰とはまだ理解できないことであってもそれを信じることです」。英語の訳では、 “Faith means you believe even when you do not understand.” と言えるでしょう。

さて、皆さんは福音書の中で出てくるイエス様の友達のラザロと言う人の名を覚えているでしょう。ある時、イエス様は友達のラザロが死んだと弟子たちに伝えたところ弟子たちはイエス様に「そんな所に行くのは辞めてください。この間、私たちもそのラザロの家のあるベタニアに行った時、町の群集があなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこに行かれるのですか」と不満の声を出したのです。しかし、イエス様の弟子の一人は他の弟子たちに言いました。「私たちも行って、一緒に死のうではないか」と。又たある時、イエス様は弟子たちに自分が死が迫っていることを語ったのです。「私は去ってゆく。あなたたちは私を捜すだろう。私の行くところにあなたたちは来ることができない」と。イエス様はご自身のこの地上での命がもう長くないことを知り、弟子たちに「私はあなたたちの行き着くところの準備に行ってくる。それは私のところで、そこにあなたたちも来ることになる」と言われたのです。

その時、また同じ12弟子の一人がイエス様に食って掛って言った言葉は、「主よ、私たちはあなたがどこに行くのか分かりません。どのようにしてあなたが行くところがわかるようになるでしょう」と。そう言った弟子は誰でしたか?ペテロではありません。ヤコブ、ヨハネ、アンドレでもなく、トマスです。疑い深いトマスと言うあだ名が付けられたトマスです。今日の福音書によると、このトマスはどういうわけか、イエス様が弟子たちに復活された日曜日の午後、他の弟子たちが、ユダヤのリーダーを恐れて鍵を閉めた部屋でびくびくしていた時、イエス様が、鍵のかかったままのドアを超えて弟子たちの中にあらわられた時, そこにいなかったのです。

きっと独りで、イエス様が死んでしまったことを悲しんで泣いていたのだと思います。私も何か悲しい時があると、ほかの人から慰められることより、悲しみの思いに駆られて長い間、自分の気落ちした世界に、はまってしまう時があるのです。「独りだけにしてくれ。私にかまわないでくれと」。それは自分に失望とは言わないまでも、自分はなんて惨めな人間と真っ暗な部屋の中で涙をぽろぽろ流すことがあるのです。或は、皆さんもそのような気持ちになること、なったこともあるのではないでしょうか?

8日たって弟子たちが皆、そこにトマスも共にいた時、復活されたイエス様がもう一度現れ、「私は、あの方の釘のあとを見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」と宣言したトマスに「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じるものになりなさい」と言われたのです。トマスはそのイエス様の言葉からの聖霊に答えて、「わたしの主、私の神よ」と言ったのです。

イエス様は言いました。「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」と。多くの人は疑いのトマスと言うあだ名を付けてましたが、私たちも皆、疑ったことがあるはずです。イエス様は奇跡なんて本当にできるんだろうか。こんな広い世界の中で、私のことなんか、私の存在なんか分かっているんだろうか。私が悲しみに浸っている時、どのように私を支えてくれるんだろうか。私のこの世の人生が終わった時、本当に神様の国に連れて行ってくださるのだろうか。

疑いのトマスと言われているこの聖書の話は、実は、私たちすべてに当てはまるのです。しかしそれ以上に神様は、疑う私たちを信じる私たちに変えてくださるのです。変えさせて下さっているのです。心の中でイエス様の存在を熱く感じたことがありますか。ある人は私にこう言いました。「私はイエス様が私に話しかけてくれるのを我慢強く待っていますが、まだ、その経験がありません。私の信仰がまだ未熟だからでしょうか?」イエス様、神様は私たちに耳に聞こえる言葉で語るだけではなく、ある時急に、神様の存在を感じることができる時もあるのです。

自分ごとですが、私は時々、皆さんから、「岸野先生、何か心配事でもあるんじゃないですか?何か何時もらしくない、無邪気さがない、何か寂しそうな顔をしている。どうしたんですか?先生は私たちをリードしてください。牧師さんは羊飼いないですよ。羊飼いがいなくては信徒はばらばらになってしまいます。先生、私たちを見捨ててしまったんですか?、やる気をなくしちゃったんじゃないですか。私、私たち信徒は羊飼いなしではばらばらになってしまうんです」と。

さて牧師はどんな時も歯を食いしばって信徒に「私はあなたの牧師です。私についてきなさい」。と言うべきかもしれません。しかし牧師も同じ人間です。心の迷いもあるし、信仰が弱い時をあるのです。それが私のときは顔にも、言葉にも、態度で出てしまうのです。

しかし皆さんからの思いを聞くことはできます。できるだけでなく、それが私の牧師の仕事の中で必要なんです。皆さんの心配事を聞く、一緒に祈る、祈ってもらうことは牧師、信徒と言う関係を越して、イエス様に従う私たちにとってとても必要なのです。

さて疑い深いトマスとあだ名まで付けられたトマスに戻り、このトマスが実に私たち、一人ひとりの思いと行動をこの聖書の話の中で書かれていることに気がついてください。私たちひとり、ひとりもトマスと同じみじめな思いと行動に落ち込む人間ですが、そんな惨めな私たちをイエス様は、私の掛け替えのない子供、Children of God と呼んでくださっているのです。トマスは私たちであり、私たちはトマスなのです。そのトマスを愛されたイエス様は同じように私たち、一人ひとりを愛してくださいます。愛されている私たちはお互いを愛し、大切にするとこを命じられているのです。どうか毎日の生活の中で、神様の愛を感謝し、その愛をお互いの生活の中で実行できる私たちになることをイエス様にお願いしましょう。アーメン。

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