July 7th, 2012

2012年6月24日聖霊降臨後第4主日聖餐礼拝説教「イエス様からいただく平安」”Peach from Jesus” 岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

マルコによる福音書43541

「イエス様からいただく平安」“Peace from Jesus”

私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平安があなた方にあるように。アーメン。

ある名前の知られた画家、画家がお金持ちの銀行の頭取から何か平安を象徴するような絵を描いてくれと頼まれました。画家はさんざん考えたあげく、時間をかけて、空の真っ青な, のどかな麦畑の光景をバック・グラウンドに、牛と馬が草を食べている、そして、鳥たちが飛んでいる、いかにも平和らしい絵を描いたのです。画家は、自分で納得し、胸がわくわくしてこれを銀行の頭取の所にもって行ったのですが、彼は「ううん、ううん」とため息、がっかりしたような感じで、こう言いました。「君の絵はいい絵ではあるのは確かだが、どうも私の思っている平安さと違う、もう一つ描いてくれ。画家は少しがっかりしましたけれど、「平安」とはと頭の中で何日も考えた後、今度は、前の平和的な景色から人間関係の中で見られる「平安」な姿の絵を描いたのです。それは、お母さんが赤ちゃんを抱いているシーンです。赤ちゃんは抱かれているお母さんを信頼してとても穏やか、また、赤ちゃんを抱いているお母さんもとても幸福そうに心の温まるこの絵を今度は自信をもって描き上げました。完成した絵を持ってこれこそはいい平安のシーンと喜んでもらえるだろうと期待して銀行の頭取を尋ね、差し出した絵をじっと見つめている彼からどんな答えが来るかどきどきしながら待ったのです。彼は言いました。これは素晴らしい母親と赤ちゃんとの絵ですね。そこに平安があるのは見てすぐ分かります。でもお願い、もう一度これこそ平安のシーンだというものを描いてくれ。画家、いやこのアーチストは心が落ち込んでしまったのです。何故私の感じた平安の姿が頭取は感じてもらえなかったのだろうと。しかし、私にとって平安とは何であろうと心の底を見つめるように、彼は聖書のページを読み始めたのです。「私がいただく平安とは何であろう」と今回は、長い時間をかけて彼が心の底からの平安を求めたのです。さてここで皆さんにも自分で感じる平安とはどういうものであろうかと考えてみていただきたいのです。もちろん、一人ひとりの平安のイメージは違うでしょう。それを今、発表してくださいと言うのではありませんが、自分が納得する平安、それはほかの人のイメージと違っていても当たり前です。30秒あげますので考えてみてください。その結果、アーチストはインスピレーションを受け、これまでになかったように、そのイメージををキャンバスに描き始めたのですその平安をテーマに描かれた絵とはどんなものだったのでしょう? 海の荒れ狂う嵐が岸壁をすさまじい勢いでアタックしている、空は黒い雨雲で覆われ雷は思うままにあちらこちらに落ちてくる。もしそこに私が独りでいたならば、大波呑み込まれてしまったでしょう。そのような嵐の中で、そのような人生の嵐の中で、私たちは、神様、助けてください、私はもはや死にそうですと叫ぶのではないでしょうか。しかし、大波のかなたに光が見える。黒い雲の後に真っ青な空が見える。今大きな試練の中にいた私たちが、どうやら嵐を乗り越えられるのではとの希望が与えられる。、画家、アーチストはこのような人生の過渡期に起こる難しいチャレンジの中に、神様の約束した希望を岸壁の中の一番高いところにある鳥の巣、その中で、親鳥が雛を翼で囲い、あたかも親鳥が、「心配しないでいいよ、私がみんなを抱いてこの嵐を通りぬけてあげるから」と、まるでこれは、神様が私たち震え、おののいている者に「私を信じなさい。恐れることはない」と言っているかのように恵みの平安を描いたのです。

突然私の頭に出てきたのは、葛飾北斎という有名な、浮世絵の版画家が作った神奈川県横浜の沖合いで、荒波に呑み込まれそうな漁師たちが真剣に船にしがみついていると言う絵です。しかしこの版画の中心に富士山という日本一の山がある。富士山は、日本人にとって希望の山であり、わたしたちの心のよりどころです。アーチストは平安という主題で描き上げたこの絵を銀行の頭取に手すと、「まさにこの絵は私が心の中に描いていたものと同じだ」と言って受け取ってくれたのです。

さて私たちが聞く言葉、平安Peace, 静穏、tranquility, 冷静という心の持ち方を、人生の荒波の中で感じられるようになることは大切なことです。今この教会に来るようになり、あと2ヶ月で赤ちゃんが生まれるという Flacks さん夫妻も新しい命をまち望むうちに平安な心が必要と感じているでしょう。

イエス様の弟子たちは、いつも神様からの平安の恵みをもとめていたのです。私たちにとても同じです。私たちが人間として神様に答えてほしい質問は、「神様、あなたは今どこにいらっしゃるのですか?」、「神様、あなたが私に答えてくれないのはあなたはねむっているかですか?」「神様、あなたは私の祈りを聞くことができるのでしょうか? 神様、私の祈りを聞いてください、答えてください」と。

今日の福音書はイエス様の弟子たちがイエス様と船の中にいた時、激しい嵐に会われて、転覆するかもしれないと言う怖い経験をしていた事件です。船と言ってもそれはせいぜい5メートルぐらいのもので、少しの風が吹いても随分揺れたでしょう。それが突風によって沈没するかもしれないように揺れたのです。弟子たちの多くは漁師でしたが、この嵐の沈没するかもしれない船の中で一人ねむっているイエス様に、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないんですか」と叫んだその心境はわかります。私たち一人ひとりが、悲しみに、悩みにくれていた時、また、病気で心も体も疲れきっていた時、「イエス様、私を哀れんでください。私を助けてください。あなたのほかに誰が私を救うことができましょうか」と祈ったことがあったはずです。

もう10年ほど前のことですが、ある日、日本から電話がかかってきました。母からの電話です。「お父さんが事故にあいました。順天堂病院に運ばれました。お父さん死んじゃうかもしれない。今日手術を受けます。頭の中で血管が破裂したらしい。ゆうちゃん、日本に帰ってきてくれる。お母さん独りでどうしていいのか分からない」と。それから24時間後、東京の家に飛んで行き、母は私の顔をみて「ゆうちゃん、本当に帰ってきてくれたのね」とワーッと泣き始めたのです。私の存在が母に何か心の支えを与えたのでしょう。父が事故にあったのは日曜日の朝。一晩冷やしてあった大きなスイカを自転車のハンドルの前にある篭の中に入れて教会まで行く途中、交差点でトラックにぶつかりそうになり倒れたのです。なんとスイカをかばうように倒れ、スイカは大丈夫でしたが、父は道路で頭を打ち、救急車で順天堂病院まで運ばれました。CTスキャンでくも膜下出血とわかりその日に手術をしたのですが、それ以来、頭の切れた父が悲しくなるほど変わってしまったという悲しい事件がありました。

しかしこれは私だけでなく、ここにいる皆さんも人生の悲しみ、苦しみを感じたはずですわらをも掴む思いとは良く私たちのどん底の苦しみ、悲しさの中で、「神様、お願いです。助けてください」と叫んだ私たちではなかったでしょうか?

「神様、あなたはどこにおられるのですかあなたは私の悲しみ、苦しみをご存知ですか? 私の祈りが聞こえますか。そうならお答えください」。と私たちは、イエス様が共にいてくださることを願うのです。私たちの神様は必ず、必ず私たちの祈りを聞いてくださいます。神様は、「私は十字架に付けられたイエスとして、今ここにいます。私はあなたの悲しい、苦しい、重い思いを知っています。私の許に来なさい。あなたの重荷を軽くしてあげよう」と。

イエス様はまたこう言ってます。「何故あなた方は怖がっているのか。あなたは私を信じる信仰を持っていないのか」と。これはイエス様が船の中で脅えている弟子たちに言った言葉ですが、同じように私たちにも語りかけているのです。

私たちが、使徒信条の中で、「私たちは天の造り主、父なる全能の神を信ず」と信仰告白する時、神様はこの広い宇宙の作り主と信じますか? つい最近まで、私たちは宇宙の一番遠い所は私たちの太陽を中心とする惑星の集まり、しかしそれが今度はさらに広がり、銀河星、そしてまたいまや銀河星を一粒の砂のように見ると銀河星と同じようなものが何億、何兆もあるといわれています。

私たち一人ひとりも何億、何兆の細胞によって作られているのです。まさに私たちは宇宙の中で砂の一粒ですが、その一粒の私たちを神様はすべてご存知です。しかし宇宙の中で砂の一粒のような砂のような存在の私たちに神様の愛を知らせるために、神様はイエス様の形、また聖霊と言う姿で私たちの所に来てくださったのです。

その宇宙をつかさどる神様が私たち一人ひとりを名ざして知っているのです。この世を創造された神様である父なる神、この世を救うために人の子としてきてくださったイエス様、そしてすべての源である神様の霊が英語で言うHoly Spiritです。私たちはこの3つの神様の顕れかたに導かれて、人生を神様の望まれる生き方で過ごすことができるのです。それが80年、90年、長くて100年でしょう。神様に導かれるこの命はまさに神様の平安を味わうことのできる人生であります。どうか毎日毎日をイエス様に感謝して生きる私たちになれるよう祈るのです。アーメン。

Back Top

Comments are closed.