マルコによる福音書5章21-43節 「この女の苦しみ」 “The Suffering of This Woman”
私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン。
今日の福音書の話はヤイロと言う名の会堂司が、イエス様の足元にきて、ひれ伏し、病気の娘を治してくださいと頼んだことから始まります。二人が、ヤイロの家に行く途中、12年の間出血の止まらない病気の女が、イエス様に自分の病気を治してもらいたい思いで、イエス様についてきて、イエス様の服に触ったのです。するとたちまち女の出血が止まったのです。しかしこの女にイエス様がまだ話している途中、ヤイロの家から使いのものがやってきて、ヤイロの娘が死んでしまったことを告げたのです。
皆さんの中にこの話を何回も何回も聞いたことがあると憶えている方もいらっしゃるでしょう。マタイ、マルコ、そして、ルカによる福音書にこの記事は共通に書かれているのです。それほど福音書の著者にとってこの記事は大切な意味があるのです。
皆さんがまだ、小さな子供を抱えて生活していた時、子供が病気になると心配でたまらないとそのような経験をした事のある方, 沢山いるはずです。子供が発熱して40度Cの熱が出てきた。それが2日続いている。何かうなされている。咳も出てきて、体がだるそう。大人の私たちだってそういう時にはうろたえてしまうことがあるのです。
私は過去に何回もヤイロと彼の娘について説教をしたことがありますが、この出血の止まらない、みんなから嫌われていたと思われるこの女について今日まで説教の中で話したことはありません。何か云いづらい、聖書の中で言われているこの女の病名が、長血といっても男である私はそれがはっきり分からなかったからです。しかし出血が止まらないとはただの病気ではないはずです。私たちの血は空気に触れると固まるそれによって出血が止まるはずですが、これはそれ以上の婦人病で12年にわたって血の止まらないとはなんと悲しいことではなかったでしょうか。ところで聖書にはこの女の名前が出てきません。名前の出てない人とはどういうことかと言うと、或いはこの女は、みんなから嫌われていた、仲間はずれのされていた、みんなから避けられていた人ではなかったでしょうか。
ユダヤ教の律法によると、長血の人はUntouchable, ほかの人は触ってはいけない者といわれていたのです。日本人はアメリカ人に比べ人と人の skin touch を控えます。アメリカ人はその点、 “give me a hug, a big hug”と言う方で、よくhug された時に、お相撲さんの上手を取るか、下手を取るかの格好で写真に写されたの見て、独り笑いしたことがあります。長血の女は一般社会から嫌われていた。ハンセン氏病にかかった人のようにその人が近くに来ると人は遠回りしてまでその人に近づくくことを敬遠したのです。誰からも声をかけられない、声をかけられたとするなら、「お前、わたしたちに近づくな」だったでしょう。
旧約聖書のレビ記と言う本は、ユダヤ人の守らなければならない戒律の本ですが、この女は12年も、毎日、毎日、みんなから、「穢れた者、神から見放されたもの」と世件から呼ばれていたのです。英語でいうなら、この女はuntouchable, 誰から触られることもない、近くに行ってもいけない存在の人とユダヤ人の律法によると人々から見放された女だったのです。皆さんがこの女の苦しみがどういうものであったか、察してください。この女は解決のできない毎日、毎日血の止まらない病気で心も体も疲れきっていたはすです。しかし私たちの中には、病気とは言わないまでも、誰でも何か自分の心を痛めているものがあるはずです。
ある人にとってはそれが経済の問題であるかもしてません。2008年までアメリカの金融業は景気の良い道、甘い蜜を吸っていた。それが1930年の大不況のようにがたっと変わり、多くの人の貯蓄、株券、そして自分の持っていた家の支払いができなくなった。倒産した。職を失い、家も取られ、投資していたお金の価値もなくなり, たちまちのうちに、Homeless になってしまった人たちがたくさん出てきました。またある人にとって、家族との問題が原因で身内の人とcommunication もとざされてしまった。そしてまたある人は、話し合う家族も、友達も、昔なじみの友達からも音沙汰が無くなり孤独でたまらない、こんな惨めな思いでどうやって生きていけるだろうと毎日が苦しみの連続の人もいるのです。人間として一番悲しいことは、共に心を打ち明けられる友達がいないことではないでしょうか。
長血の女が、「そうだ、もしイエス様に触れたら、わたしの病気もどうにかなるのではないか」と思うその心をイエス様はもうご存知だったと思います」。もう一度言います。イエス様はもう私たちの心の中を良くご存知です。私たちの悲しみ、悩み、心の憂いも知っているのですが、私たちはそのことをイエス様に祈りの中で話さなければなりません。
この女は12年間も続いている治らない病気は、神様からの罰として考えざるをえなかったのです。26節には、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たずますます悪くなるだけであった」。
しかしこの女はイエス様の噂を聞きました。イエス様は奇跡を起こすことのできる方, この人なら何とかしてくれるかもしれないと、藁にもすがる気持ちでイエス様の跡を追ったのです。群衆の中に入り、後ろからイエス様の服に触れたのです。イエス様の後ろについてきた人はこの女だけではなかったでしょう。しかしその混み合っている中で、この女に触れたものは皆汚れた者になるのです。「お前のような者がこんな所に来てるとは、もしわたしたちにぶっかっただけで、私たちも穢れた者になってしまう。ここから出て行け」と非難の声が聞こえるような感じがします。それ以上にもしイエス様に触れると言うことはイエス様をも穢れたものとしてしまうのではないでしょうか。
ですから、恐怖と希望と羞恥心が絡まったような思いでイエス様のすぐ跡を追い、震える指でイエス様の服に触ったのです。
福音書の29から30節にかけてこう書かれています。「すると、すぐ出血がまったく止まって病気が癒されたことを体に感じた。イエス様は、自分の中から力が出て行ったことに気がついて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのは誰か」と言われたのです。
井上洋治さんと言うカトリックの司祭である方が、この長血の女について「ゆるしによる回心の物語」と言う解説の中でこう書いているのを紹介しましょう。
この女性は、12年間も苦しんでいた出血を止めていただいた。しかし自分としては、はっきりと病状を訴え、お願いしたわけでもなく、ある意味ではずるいような形でイエス様の服にちょっと触れたわけです。普通ならば、「なんということをするか。もし本当に直していただきたいのなら、恥ずかしいとか、みんなから非難されるのが怖いとか、そんな気持ちは全部捨てて、謙虚に自分の苦しみを話すべきだ」と言われるかもしれないと思って、彼女は恐ろしくなったのだと思います。
しかしイエス様は、そういうようなことは一言もおっしゃらず、ただ彼女の長い間の寂しさと涙とを受け入れられたのです。そしてイエス様は、この女性にこう言いました。「あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい。もうその病気を悩んだりせず、元気に暮らしなさい」。この27から28節にかけての福音書の言葉はとても大切な言葉です。「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れれば癒していただける」と思ったからである。同じように新約聖書のロ-マ人への手紙10章17節にこう書いてあります。それを読んでみます。「じつに、信仰は、聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞く事により始まるのです。
私たちの信じる、復活されたイエス様は今ここに、私たちの間にいるのです。あなたの喜び、悲しみ、孤独な思いをすべてご存知です。
私たちの周りには年取った親の面倒を見ながら生活している人たち、年に2度も3度も日本に帰って本当に短い時間ですが、親孝行してあげる人たちが沢山います。愛する人たちと共にいられないのは寂しいことですが、イエス様は私たちの愛する人たちをも見守ってくれていると信じます。
最後にこの長血の女の話の前に出てきたヤロイとその娘について一言。ヤロイは長血の女がイエス様によって癒されるまで、辛抱強くイエス様を娘の所に連れて行こうと待っていたのです。さてこれからヤロイの家に行きましょうと言っているその時、ヤロイの家から使いの者が来て娘さんが死んでしまったことを知ったのです。
この娘さんが、あなたの娘でしたら、あなたはそのニュースを聞いてどう思ったでしょう。「イエス様、この女を病気から救ってあげたのは良かったことですが、もしわたしの娘の元に早く行けていたなら、娘は、助かったでしょうに」と言ったはずです。
イエス様はそれに対して「恐れることはない。ただ信じなさい」とヤロイに言われたのです。イエス様はヤロイの家に着くなり両親と3人の弟子だけをつれて子供の手をとり、「タリサ、クム」、それは「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」と言う意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだしたのです。
聖書の奇跡の話はある人にとってつまずくものなのですが、イエス様を神様と信じる者にとってこれは嬉しいニュースです。これは神様にとって、不可能なことはないという記しです。しかし奇蹟を経験したことで信仰が生まれるのではなく、わたしたちは、信仰生活の中で神様の恵み、恩恵、英語で言うGraceによってのみ生かされていることを知る、そのところに私たちの信仰があるのです。アーメン。