ヨハネによる福音書6章1-21節「奇跡のメッセージ」“The Message Behind the Miracle”
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。
私が両手にバスケット・ボールを持つ時、それはただ単に、バスケット・ボ-ルですが、それが今年National Basketball Association の最優秀選手に選ばれた、LeBron James の手に渡ると得点に代わるのです。Wimbledon Tennis Tournament でテニス・ボールがRoger Federer と言う世界一のテニス・プレーヤーの手に渡され、ラケットで打たれると、それが得点となり、世界一のランキングにつながるのです。ここで言われることは、ただ、一つのボールでも、ある人の手に渡されると、素晴らしい結果が出てくると言うことです。それは神様についても同じです。考えてみてください。五千人もの群集が、イエス様の話を聞きに山を登ってきている。しかし群集は、疲れている、お腹もすいている。
イエス様はフィリポにこう言いました。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と。こう言ったのは、フィリポを試みるためであって、ご自分では何をしようとしているか知っておられたのである」と福音書は書いてあります。フィリポの心の中で、「イエス様、冗談やめてください。5千人分の食べ物を売っている所なんてどこにもありませんよ」と言いたかったのではないでしょうか。 その時,弟子のアンドレが5つのパンと二匹の魚のを持っている子供をイエス様の前に連れてきたのです。この子供は両親から言われて、これをイエス様の所にもって行きなさいと言われたのかもしれない。或は、この子ども自身が、イエス様ならこの食べ物を奇蹟で多くの食べ物にしてくれると思い、イエス様の所にきたのかもしれない。アンドレ自身はこれだけの食べ物でイエス様は何ができるでしょうかと考えたかもしれません。しかし、わたしは、アンドレの心の中に、イエス様は何かできる方との確信があったと思うのです。そこで、アンドレの紹介により、イエス様は5つのパンと二匹の魚を子供から受け取ったのです。
これだけのパンと魚がどうやって5千人の人たちのお腹をいっぱいにすることができるのかと誰でも疑うのは当然でしょう。それでもイエス様は5千人の人々を草の上に座らせて、「このパンをくださった神様に感謝します」と言い、みんなが満腹になった後、パン屑を集めると、12の籠にいっぱいになったのです。ある人は、何故こんなに食べ物が残るほど出てきたかと言う質問に、「実は5千人の中にはお弁当を持った人も沢山いたのではないか、パンと魚が配られる中、お弁当を持っていた人達は自分たちの食べ物をみんなにわけ与えたのではないか。だからこそ、イエス様は、みんなが食べ終わった後に、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われ、その残りものは12の籠にいっぱいだったのではないでしょうか。何故そんなに多くのレフト・オーバーがあったかと言うと、それはイエス様が、generous ,寛大な神様だからです。皆に心ゆくまで食べて欲しかったからです。ですから、私は、この奇跡が、どのように起こったのかということに焦点を置くよりも、イエス様によって、お腹のすいていた人たちが、祝福されたと考えたいのです。祝福された私たちは、その祝福を私だけに与えられたというより、私たちによってその祝福を分かち合うところに神様の御心を読み取ることができるのです。
ヨハネによる福音書6章35節にこう書いてあります。「わたしが命のパンである。私の元に来る者は、決して飢える事がなく、私を信じる者は、決して渇く事がない」と。食べることができる。食べるものがあるとは幸福なことであるのはもちろんです。聖書の初めの人間アダムとイブもエデンの園に連れられて来たその日から果実を受け取り彼のお腹を満たしたのです。
出エジプト記の中に、奴隷として働かされていたユダヤ人がエジプトの土地から逃げ出したのは良かったのですが、40年にわたって荒野でさまよっていた時の神さまへの文句は何かといえば,何時もお腹がすいていたことです。そんな時、彼らは言いました。「私たちがここで死ぬより、エジプトで、奴隷でいた時のほうがましだった。それは食べるものがあったからだ」と。
3日前のCNN のニュースで、アフリカのマリという国で、過激派のアルカイダが、この国を荒らしまわり、多くの難民は食べ物もなく途方にくれているという報道をテレビで見ました。この国には Timbuktu と呼ばれる古代文明それも砂漠の中にある有名な、アラビアの駱駝の商隊がアフリカのサハラ砂漠の中でキャラバン・ルートの一番古い町です。みなさんが知っているシルク・ロードの中にある町と同じようなところです。それが今アルカイダ、イスラム教の過激派に占領され、町の住民は食べ物もなければ、自分の家も失い、住むところもない状態です。マリというこの国は、クリスチャンの国ではないから私たちに関係ないと思われる方もいるかもしれません。しかし私たち、イエス様に従うものは、宗教を問わず、困っている人たち、難民となってこれからどのようにして生きていったら言いのだろうかと途方にくれている人たちを私たちの祈りに覚え、神様が施しと慰めの手を差し伸べてくださることを願うのです。
イエス様の元に来た人たちの多くは、イエス様に何かをしてもらいたいと来た人たちがいたのを私たちは聖書中で読むのですが、私達が、イエス様から一番いただきたいものは、イエス様は私たちを見放すことはないとの確信です。私たちはイエス様の奇蹟にいつも驚かされるのですが、本当の奇蹟は反対に、イエス様によって私たちはイエス様を信じる心をいただいているということではないでしょうか?
私の両親は私の生まれる前からクリスチャンであったことが私人生の中で、大きなギフトであったことは確かです。わたしは、イエス様を私の先生、私の慰めぬし、私に勇気を与えてくれる方と信じます。イエス様は、神様が私に下さった、かけがいのないギフトです。
皆さんも、同じ神様からのギフトをイエス様から受けているのです。私たちの住むところ、食べ物、私たちの健康、私たちの友達、私たちの家族、私たちの神様と会話をする祈りも、すべてイエス様からいただいたギフトです。
ヨハネによる福音書6章35節にこう書いてあります。イエスは言われた。「私が命のパンである。私の元に来る者は決して乾くことがない」と。このイエス様の言葉を言い換えるなら、「私があなたに食べるパンを与えることが、そんなに素晴らしいことであるなら、覚えてください。あなたがたが、本当のパンをいただくことは、私、イエスが、あなたの命の中にいることですよ」と。
イエス様がいつも共にいらしてくださることを知る私たちは幸福です。イエス様の愛を知ることにより、自分ひとりでできないことも、神様の手と足となって、私たちの隣人を愛することができるようになるからです。少しでも隣人を大切にすることにつながるように私たちはイエス様に祈るのです。アーメン。