August 21st, 2012

2012年8月12日聖霊降臨後第11主日聖餐礼拝説教「ただの食事を求めて」”In Search of a Free Meal” 岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

ヨハネによる福音書6章51-58節 「ただの食事を求めて」    “In search of a  Free Meal”

私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安が皆様の上にありますよう。アーメン。

これは皆さんが経験した事と思いますが、誰かがあなたから何かを貰いたい、手伝って貰いたいという前に、何か急に親切になったり、あなたを褒める様なことを云うことを思い出しませんか?これは子供だけでなく、大人も同じ事をするのです。

自動車のdealer は、皆さんに自分たちの車を買ってもらいたい、その手段として、手紙を送るのです。手紙の内容は、「新しい車が入りました。性能のいい、効率のいい車です。是非テスト・ドライブしてみてください。同封の手紙に中に見つけられた鍵を忘れずに持ってきて宝の箱があなたの鍵で開いたなら、新しい車は、ただであなたの物となりますよ」と。初めから新しい車があたるなんて、考えたこともありませんが、もしかして今回は当たるかもと期待したこともあるはずです。でも良くあることで、初めから当たる鍵など誰にも送られてないのでしょう。そのような時、また引っかかったかと不愉快な気持ちになったことを覚えているでしょう。

イエスから何かを頂きたい、して欲しいと多くの人が、イエス様の元に来たのですが、実際にはイエス様から何か食べるものをいただいてお腹を一杯にしたいとの思いで慕ってきた人も多くいたはずです。しかしイエス様は心の底から、私たちがイエス様の所まで来なさいと呼んでくださっているのです。私たちはイエス様、神様から、物質的なもの、精神的なものを求めることは昔も今も同じではないでしょうか。

しかし、ある人たちはイエス様に従うことにより、物質的な欲望を満たす望みを抱くのです。よくテキサスにいたとき見た日曜日のテレビ、ラジオによる礼拝の中で、こういう言葉が何回も繰る返して言われていたのを思い出します。というのは、「もし誰かが物質的なものを求めるのなら、イエス様に従いなさい」と。「イエス様に従う人は、必ず神様の祝福を受けるのです」と。言い換えるなら、「もし誰かがイエス様に従うようになったのですが、まだ経済的にも物質的にも恵まれないものは、神様に対しての信仰が弱いからだ」と言うのです。

イエス様の弟子たちもイエス様について行くことによって大きな祝福を受けていますが、経済的な、物質的な恵みは非難されることはなくとも、経済の安定していない人たちは神様から祝福されていないと考えることは私たちにとってとても悲しいことです。

自分の腎臓がもう役目を果たしていない、一日ごとに4時間にわたる透析をしている竹馬の友がいます。お酒が好きで、若い時はビール、ウイスキーの飲みすぎで体を壊し今でこそ後悔していますが, その彼と、私が日本に帰った時はいつも会うことになっています。彼の親父さんは大手の信託会社の重役でしたが、お父さんをもう35年前に亡くされ、話の中で、「もし親父が生きていてくれたらなー」との言葉が何回も出てきます。私も父を亡くし時々寂しい思いになりますが、そんな時、父は神様の身元に今いるんだとの確信を持っています。この頃はもう23歳になる息子のアンドリューと聖書のいろいろな話について会話ができるようになりました。それも彼自身が、イエス様の人々に対しての慈しみと哀れみを聖書の中で読み取ることができるようになったからです。しかしそれ以上に、親と子の関係を深めることができるようになったことを神様に感謝するのです。

私はこの教会に来てからもう3年半の時間がすぎました。お互いの信仰を分かち合う大切さを神様の恵みとして受け取ることができるようになりました。私たちの信仰の一番大切なことは、愛されるということと愛することは同時に起こる、私たち人間にとってなくてはならない人生の基本であるということです。

今日の主題である「ただの食事を求めて」がどのように今のメッセージにつながるかは皆さん自身で考えてください。

私の家族は一足先に家内、ナンシーの父がなくなって一年目の礼拝をペンシルベニアでおこなっています。今夜、夜行の飛行機で、私も、Nancy の実家に行ってきます。彼女は7人兄弟姉妹の一人でその7家族がみなNancy のお母さんをかこんで過去から、未来のことを話し合うのです。そこに神様の支えと導きが見出されると信じます。

私が良く質問される信仰について何回も説教の中で話してきましたが、信仰は自分で作り出すもの、一生懸命信じることが信仰だと思っている人が多くいます。キリスト教で言う信仰は神様のギフトなのです。というのは私たちが信仰を作り出すのではなく、神様、イエス様自身より私たちは信じる心を頂いているのです。

それでは私たちは、操り人形みたいですね。自分の思いで神様への感謝もできないのですかと聞かれたことがありました。神様に感謝するとは、神様を私たちの救い主として認めることです。それは赤ちゃんとお母さんの関係の中でも見出されるでしょう。赤ちゃんは皆さんが気がついている以上に自我、自分の欲しいものを、して欲しいものを求めるのです。おしめを取り替えてとは云えないまでも泣くことによって、「おなかがすいたよ」も同じく泣くことによって満たされること、抱かされることで安心してお母さんの腕の中で眠ることができるのです。

信仰を持つ。イエス様という神様を信じ、イエス様の愛の精神で私たちが生かされているのは本当に幸福です。アーメン。

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