- 詩編を読もう:主は聖なる方(詩編99編)
今週の後半、木曜から土曜までに与えられている詩編は99編。 以下まず、声を出して読んでみよう。
1:主こそ王。諸国の民よ、おののけ。主はケルビムの上に御座を置かれる。地よ、震えよ。
2:主はシオンにいまし、大いなる方。すべての民の上に高くいます。
3:御名の大いなること、畏るべきことを告白せよ。主は聖なる方。
4:力強い王、裁きを愛し、公平を固く定め/ヤコブに対する裁きと恵みの御業を/御自ら、成し遂げられる。
5:我らの神、主をあがめよ。その足台に向かってひれ伏せ。主は聖なる方。
6:主の祭司からはモーセとアロンが/御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと/主は彼らに答えられた。
7:神は雲の柱から語りかけ/彼らに掟と定めを賜り/彼らはそれを守った。
8:我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らを赦す神/彼らの咎には報いる神であった。
9:我らの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かってひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方。
気になった言葉、あるいは、質問したいような事が出てきていると思う。 引き続き、この詩編を2回ないし3回読んでみよう。
数回読んだあと、どんなことを思われるだろう?
「主は聖なる方」という言葉が、3回も(3節、5節、9節)出てきていること注目したい。旧約聖書に書かれている、「聖なる、聖なる」という言葉は、そもそもどういう意味なのだろう?
ヘブル語の言葉では、「離れて」という言葉が元々の意味。 たしかに、「聖日」という言葉を使うと、普段の「平日」とは「異なる日」とか「離れた日」を指すことになるので、「離れた」という意味も納得できる。
「主は聖なる方」と言った場合、「主は離れたところにいる方」つまり、畏れ多くて近寄りがたいお方という意味なのだろうか?
詩編99編全体を読むなかで、「おののけ」、「民の上に高くいる」、「裁きを愛し」、「咎には報いる神」などなどの言葉の中から、畏れおおく、遠く離れた方という印象は伝わってくる。
しかし、主が畏れ多い存在であることを感じつつも、「離れて」存在されている主だけではなく、「恵みの御業」、「答えられた」、「赦す神」等々の言葉に、主の身近さも感じる。
聖書全体のストーリの中からして、主なる神は、決して離れた方では終わっていない。 むしろ、主なる神、キリストは、私たちを愛するがゆえに、人間にまでなられ、わたしたちの身近におられ、そして、「徹底的に赦す神」であることを付け足しておきたい。