3月7日 詩編を読もう: 幸せとは? (詩編 32)
「幸せ」ってなんだろう? ちょっと考えてみて欲しい。
いろいろな解釈があると思う。 人によっても違う。 また同じ人でも、小さい頃に思い描いた事、少年時代の思い、また成人してから考える事、いろいろ変化する。
実は、聖書の中でも「幸せとは」ということについて、いろいろ書いてある。 時間のある時に、詩篇1編、41編、112編、119編、127編、128編など読み比べてみるのも良いかもしれない。 あるいは新約のマタイ5章3節も。。。
本日は、詩篇32編に集中したい。32編には普遍的な幸せについて書いてあると思う。いつものように繰り返し、できれば声に出して、詩歌を詠うようなつもりで読んでみよう。
1:【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
2:いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
3:わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
4:御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。〔セラ
5:わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。〔セラ
6:あなたの慈しみに生きる人は皆/あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも/その人に及ぶことは決してありません。
7:あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって/わたしを囲んでくださる方。〔セラ
8:わたしはあなたを目覚めさせ/行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
9:分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。
10:神に逆らう者は悩みが多く/主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
11:神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。
1-2節に、いきなり、幸せとは何かについて、すこし答えが書いてある。それは、罪を赦されること。 しかし、罪っていったい何だろう? ヘブル語の原語の意味を紹介すると、「的をはずしていること。」 つまり、一番大切なことを心得ずに、つまり神の思いからはずれて生きていること。 そのように生きてきてしまったことが、赦されるのが、幸せということになってくる。しかし、赦しには、プロセスがある。
3節以降を見ていこう。3-4節には、この世の快楽を夢見て、自分の思い通りになると思って行動し生活していたら、それがとんでもない的外れであり、精神的に打ちのめされた気分になってしまっている様子が書かれている。 そして5節、的外れに生きてきた自分をさらけだし、絶対的な神である主に、「私は的外れに生きてきて、申し訳けありませんでした。」という告白をする。 この告白、悔い改めが、言うなればプロセスで、とても大切。 主に背いて過って生きて来ましたという者を、主は大喜びで赦してくださる。
6節以降は、苦難から守られ、次に進むべき道が示され、さらに主に在って、大きな喜びの声をあげる様子。
さて、32編の結論を一言で言うなら、「幸せとは、悔い改めること。」といっても過言ではない。この悔い改めが、赦しと大きな喜びへと導いている。 さて、今日の最初の質問に対して、各人が自分なりに考えた「幸せとは何か?」と、この32編の結論「悔い改めること」を比べてみて欲しい。 似ていただろうか?似ても似つかぬものだったか?
いろいろな、試みに遭遇している方々を覚え祈りつつ。 また次週礼拝において、礼拝に集まる者、皆が悔い改め、そして、神の赦しが礼拝を通して与えられ、幸せを実感し喜び合うことができますように。