March 14th, 2013

2013年3月14日詩編を読もう:悲しみから喜びへ(詩編126)安達均牧師

詩編を読もう, by admin1.

東日本大震災から2年が過ぎた。 まだまだ、深い悲しみの中におられる方々がたくさんいる。 

ほんの一瞬の差で、肉親を亡くした方々を思う。愛していた配偶者、あるいは婚約者、この上もなくかわいい子供や孫、あるいは本当に世話になっていた父や母。なんで私が残されねばならないか? なぜ、助けてあげられなかったのか? 2年前の大震災に、「捕われて」しまっている方々。 

そのような思いをしている方々は、大震災で肉親を亡くした方々だけではない。 今、アメリカに移住してきたわれわれにとって、われわれは自分勝手で、日本に残している家族や親戚に対して、十分なことができなかったという思いに「捕われて」いるような面は否めない。  

与えられた詩編126編をなんども読み返そう。 

1:【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。
2:そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。

3:主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。
4:主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。

5:涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。
6:種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

1節と4節に、それぞれ「捕われ人」という言葉が使われているが、具体的には、神に背いていたイスラエルの人々が、バビロンに捕囚されたことを詠っているのかと思う。 

しかし、バビロンに捕われた人々だけではなく、すべての何かへの「捕われ人」、それは、ネゲブ(4節)のような不毛砂漠地帯で絶望感を味わっているような気分の方々、涙を流しながら(5節)、泣きながら(6節)、働いている方々にも通用する話。

そのような広い意味での「捕われ人」に対し、イスラエルの人々のように「神に背いていた人々」という言葉をあてはめてしまいたくない。 しかし、過去の自分の行為や、あるいは、何か適切な行動を起こせなかったことを、自分の至らなさと思い続け、そこに神の介入を願わないでいることは、それは神の思いではない。 

どんな失敗とか、恥ずかしいことも、悔い改めて、神の慈しみ、憐れみを乞い求めることこそ、神が喜ばれる。

そして、捕われていた人々に、解放を与えてくださる。 それは、深い悲しみにあって、泣き続けておられる方々が、喜びの歌を歌えるようになる。

詩編126編をよく読むと、たった6節しかない短い詩編に「喜び」という言葉が4回(2, 3, 5, 6節)も使われている。すべての捕われ人を解放し、喜ぶ存在になることは、私たちが自分たちだけで、できるようになることではない。 それは、神が赦し、解放し、真に喜ばせてくださる。

「偉大なる業」は、時代を超えて、すべての人々に賜る。 この「偉大な業」とは何だろう。 この詩編は紀元前、数百年前に書かれたものだが、この詩編の箇所も、キリストの死と復活に結びついている。 

それは、礼拝の中で起こっている、洗礼式、聖餐式であり、また、キリスト教のもっとも大切な復活祭でもある。 洗礼が行われ聖餐式を経験している方々でも、解放された思いが、ピンとこないこともある。 しかし、そこには、確かな違いが生じていて、行動に変化が起こっている。

四旬節にあって、主の復活日を約2週間後に控えている。 いろいろな試練にあっている方々、悲しみの中にある方々、捕われている方々が、神の子イエスの犠牲とそのよみがえりの復活祭を通して、すべての民が、大いなる喜びの歌を高らかに奏でる時がきますように。   

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