8月29日 詩編を読もう:幸せ (詩編112) 牧師:安達均
今週読む詩編は112編。 いつものように、3回読んで、それぞれ、気になる言葉は何だったか? 自分に何を語りかけられたか? またコミュニティに何を語りかけられているか? 思いを巡らせてみてはどうだろうか。
詩編 / 112編
1ハレルヤ。いかに幸いなことか/主を畏れる人/主の戒めを深く愛する人は。
2:彼の子孫はこの地で勇士となり/祝福されたまっすぐな人々の世代となる。
3:彼の家には多くの富があり/彼の善い業は永遠に堪える。
4:まっすぐな人には闇の中にも光が昇る/憐れみに富み、情け深く、正しい光が。
5:憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる。
6:主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。彼はとこしえに記憶される。
7:彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している。
8:彼の心は堅固で恐れることなく/ついに彼は敵を支配する。
9:貧しい人々にはふるまい与え/その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。
10:神に逆らう者はそれを見て憤り/歯ぎしりし、力を失う。神に逆らう者の野望は滅びる。
どんなことに思いを巡らせておられるだろうか。今週は、いつもの三つの質問に対して、私が思いを巡らせたことを書いておきたい。
気になる言葉は何だったか? 「いかに幸いなことか」
詩編の最初の「ハレルヤ」という「主を賛美せよ」という意味の言葉のあと、「いかに幸いなことか」という言葉が出てきている。 詩編の中には、この言葉がしばしば使われている。(興味がある方は、時間のゆるすときに1、41、65、89、119、128編を読まれても良い。) 「いかに幸いなことか」という言葉は、人間が生きて行く上で、「幸せって何なんだろう?」と考える事はよくある。その質問の答えを詩編作者が提供してくれるわけで、「いかに幸いなことか」という言葉には、次に何が書かれているか、強い興味が沸いてくる。実は、イエスキリストもこの言葉を使って、山上の垂訓を語っている。(マタイ5章)
自分に何を語りかけられたか? 「幸せとは主を畏れること」
「いかに幸いなことか」という興味ある言葉の次には、まず「主を畏れる人」という言葉が出てきた。これは基本中の基本で、「主を畏れる」ということは、聖書の中で繰り返し出てくる。 箴言の1章7節には「主を畏れることが知恵の初め」という言葉がある。 3週間前の8月8日に読んだ33編でも、この言葉が出てきて、「主を畏れる人」というタイトルで、「詩編を読もう」を書かせていただいた。 今週読んでいる詩編112編では、「主を畏れる人が幸せ」ということが詠われているわけであり、私は、「ごもっとも」と思う。
コミュニティに何を語りかけているか? 幸せな信仰者の人。そして、詩編113編の中で、主を畏れる幸せな人は、「このような人生を歩んでいますよ」ということを、コミュニティに語りかけている。 イエス・キリストがこの世に登場された時代は、安息日には、会堂(シナゴーグ)と呼ばれるところに人々は集まり、詩編を詠って賛美し、またユダヤ教の指導者が説教のようなことをしていた。 つまり、詩編の言葉が、コミュニティに広まるメカニズムがあったのかと思う。 現代でも、キリスト教会は日曜日にコミュニティの人々が集まり、讃美歌を歌って、メッセージを聴くという伝統を引き継いでいる。 しかし、まだまだ、同じこのオレンジカウンティという場所、あるいはアメリカ合衆国にというコミュニティに住んでいる方々で、「主を畏れることが知恵の初めであり、また、主を畏れる信仰が幸せなんだ。」ということまで意識される方々は少ないように思う。
最後にもう少し、112編全体に触れておきたい。2節3節では、主を畏れる人には良い事ばかりが起こるような印象が書かれているが、4節以降は、この世の現実が書かれはじめる。 4節には「闇の中に光が昇る」とあり、主を畏れる人も、闇を経験する。 また裁判沙汰のような事(5節)も起こるかもしれないし、7節には、「悪評をたてられても」という言葉も書かれており、悪い噂がたってしまうことがある現実が書かれている。 イエス・キリストの歩まれた生涯を思い浮かべるのも良い。
私たち、毎週日曜日に、主を畏れ、主を賛美する者の群れも、さまざまな悩みやあるいは病の中にあって闇を経験している者も多いのが現実だ。にもかかわらず、主を畏れる者は、主にあって強められ、主の祝福によって守られ、恵みが与えられ、主が微笑んでくださり、さまざまなごたごたの中にも、心の平安が与えられ幸せである。