10月24日 詩編を読もう:復活ルーテルへの道 (詩編84) 牧師:安達均
今週読む詩編は84編1-8節。とても短い。2回でも3回でも読んでみよう。ただ、今週は少々思い巡らす質問を変えてみたい。 説教では時々話しているが、聖書は「窓」にもたとえられるし、「鏡」にもたとえられる。というのは、聖書に書かれている内容は、まるで「窓」を通して外を見るように、歴史的に数千年前に起こった事を「聖書という窓」を通して数千年前の様子を伺うように読むことができる。しかし、その「窓」が「鏡」のように変わることもある。つまりその聖書に書かれている内容が「鏡」のように、私たちが現在体験していることを、「聖書という鏡」が映し出しているようにも読める。 そこで、今週の詩編を「窓」として読むとき、どのような光景が浮かんでくるか? さらに「鏡」として読むとき、現代の私たちをどのように映し出しているように読めるか? そのような二つの質問に思いを巡らせてみよう。
詩編 / 84編
1:【指揮者によって。ギティトに合わせて。コラの子の詩。賛歌。】
2:万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されていることでしょう。
3:主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。
4:あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り/つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。
5:いかに幸いなことでしょう/あなたの家に住むことができるなら/まして、あなたを賛美することができるなら。〔セラ
6:いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。
7:嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。
8:彼らはいよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえるでしょう。
皆さんは、この詩編を「窓」として読むとき、どんな光景を思い浮かべられているだろうか? また「鏡」のように現代の光景をも映しているだろうか? 私が思いを巡らせたことは以下のような事。
「窓」として読んだ時の光景? 「エルサレムを離れて」
1節に「ギディト」とあるがこれはおそらく琴のような楽器の名称と思われる。「コラ」というのは、合唱隊を務めた人々。 この詩編の作者は、かつて、エルサレムに生活していたが、今はどこか遠く離れた場所に生活しているのだと思う。しかし、エルサレムに住み、神殿の中に入った時のことが忘れられず恋しくて、このような詩を主に向かって詠っている。 神殿では、聖壇の上の方に当たる部分ではすずめやつばめが巣をつくって雛がかえるような光景も見受けられたのだろう。そして、またいつか神殿に入り、神に向かって賛美することができるなら、どれほど幸いなことかと詩編作者は詠う。(以上2-5節) さらに詩編作者が生活している土地から、エルサレムに旅をする人々のことを詠っている。この詩編作者が居る場所を特定することはできないが、その場所からエルサレムに向かうことは、かなりの危険を伴う旅だったのかと思われる。 しかし、勇気を出して、心を開いて神を信頼して、エルサレムに向かうならば、たとえ険しい谷があろうが、また雨に打たれようが、谷間は美しい泉と変わり、また雨も励ましの祝福と思えるようになり、エルサレムに到着することができる。そして、また神殿に入って、主に会うことができる人々はどんなにか幸せだろうかと詠っている。(以上6-8節)
「鏡」として読む時の光景? 「復活ルーテル教会を離れた方々の思い」
復活ルーテル教会で毎週礼拝に参加しておられたが、引越しやあるいは病等のなんらかの理由で、毎週の礼拝に来られなくなった方々のことを覚えている。 復活ルーテル教会のどこかですずめや鳥が巣を作っている光景を見た覚えは無いが、中庭はきれいで、あちこちに鳥がとまれるような木はある。また礼拝堂は美しく、入った時に豊かな霊に満たされた経験をお持ちの方々は多いと思う。そして、また毎週の礼拝に出ることができたらどんなに良いかと思われている方々がおられる。そのような方々の中で、病が治癒するなり、あるいは礼拝出席を妨げていた何らかの理由から解放され、勇気を出し、心を新たにされて、再び、復活ルーテル教会の礼拝に参加できるようになる方々もおられる。 そのような方々に、豊かな神の祝福がある。
亡くなった方々も引っ越された方々も、あるいは、なんらかの事情から復活ルーテルに来られない方々も含めて、どこに居るにしても、主の祝福があることを祈る。 また、復活ルーテル教会の礼拝に戻って来られることが可能な方々には、物理的にも心理的にも、ぜひ復活ルーテルへの復活の道が与えられるように祈る。 アーメン。