January 22nd, 2015

2015年1月22日 詩編を読もう:神はわたしの岩 (詩編62:6-13)

詩編を読もう, by admin1.

今週は聖書日課で22日から25日まで与えられている詩編62編6-13節を読む。一度、ゆっくり読んでみて、一番気になった言葉やインパクトのある箇所を挙げよう。 その後、詩編作者のことを想像しながら、どういうことを詠っているのかじっくり読み返す。そして、現代の私たちに何を語りかけているのか考えたい。
 
詩編62編
6:わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。
7:神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。
8:わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
9:民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。〔セラ
10:人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。
11:暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。
12:ひとつのことを神は語り/ふたつのことをわたしは聞いた/力は神のものであり
13:慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と/ひとりひとりに、その業に従って/あなたは人間に報いをお与えになる、と。

どの言葉がもっとも印象に残るだろうか? 私の場合は8節にある、「神はわたしの岩」という、神の絶対性を詠う言葉。  

詩編作者の気持ちになって読んでみたい。 6節から読み始めて、すぐに気がつくことは、詩編作者はピンチに陥っている状況を詠っているようだ。(あるいはダビデのおかれた状況を想像しながら詩編作者は詠っているのかもしれないが。) そのようなピンチ、自分の命が脅かされるような状況にあっても、6-8節において、「自分の魂よ」と自分自身に、落ち着いて、沈黙して、神にのみ希望をおく。神こそ私の岩、救い、とりでとなる塔である。詩編作者自身の救い、栄えは、神次第であり、絶対的に頼ることができる救いの岩は、神である。以上8節まで自分自身に向けて言い聞かせるように詠っている。9節にはいると、その最後に「セラ」という休止符を表す記号が入っているが、12節までは「民」に対して呼びかけ、説教のような言葉にも聞こえてくる。どんな時にも神を信頼し、神の御前に心を集中させて、神こそ私たちをかくまってくださる方。それに比べて人間はむなしく裏切るもの。まるで重みのない存在。人間同士で暴力をふるまったり、搾取しあうことが、力であるようには考えるな。そして、最後の節13節で、はじめて、詩編作者は「わたしの主よ」と、主なる神ご自身に語りかける。慈しみは、あなたのものであり、あなたは、人間の業に応じて報いてくださる。

さて、この詩編62編の上記の箇所が、現代の私たちに何を語っているのだろうか? 1月20日以降、イスラム国が二人の日本人を人質として、日本政府に何百億円もの身代金を要求する事態になっている。放映されているイスラム国の兵士と二人の日本人の映像や、報道事態にも、どこまで真理があるのか、よくわからないが、二人の日本人が拘束されているのが事実として、二人の気持ちを思うと、またその家族のことを思うと心が痛み、そして祈らずにはいられない。特に二人のうちの一人は、日本キリスト教団田園調布教会会員の一人という情報も伝わっており、私の実家からも近いところに家族も住んでいるようだ。そしてついついテレビ報道やインタネットを介して得られる情報が気になる。このような状勢にあって、意味があって、私たちは、この詩編62編を与えられているように思う。いうなれば傍観者にすぎない私たちも、本当にたいへんな思いをされているお二人、またその家族や友人にも、安部総理大臣はじめ政府高官等も、イスラム国の人々も、また舞台裏で交渉にあたる人々、すべての民に、この詩編に詠われている内容が伝わってほしいと願う。 
安達均

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