聖霊降臨後第2主日聖餐礼拝の説教は、今日の福音書、マルコ3章の20−30節より、カール先生がメッセージをくださいました。
“ Is Jesus Out of His Mind? “
「イエスの気が狂った?」
Mark 3:20-30 マルコ福音書3章20−30節
2015年6月7日聖霊降臨後第2主日聖餐礼拝説教
E. Carl Zimmermann 牧師
- イエスは、彼が行った多くの奇跡や、語ったお話しで、大変な人気を集めた。
- しかし、彼の家族はイエスの気が変になったと思った。
- そして、宗教指導者たちは、イエスの事を、執拗に人々を騒がせている困った奴だと思っていた。
- 彼らにとってイエスは脅威であった。なぜなら自分たちユダヤ人の伝統や風習、信じて行っている事柄を否定されていると思ったからである。
- 更に、彼らの中にはイエスの人望やカリスマ性を快く思わない者もいた。
- 宗教指導者たち(律法学者)にとって、あまりにも不愉快であったので、彼らはイエスに対して不信をいだき、イエスが宣教開始直後から、イエスを無き者にしようと陰謀を企んだ。
- 律法学者たちは、イエスがサタンに取り憑かれているか、またはサタンの手下だと思った。
- ある訳によれば、“サタン(魔王)”は“Beelzebub(ベルゼル)”と呼ばれ、それは“Lord of the Flies(蠅の王)”という意味だ。
- ベルゼブルは古代フェニキア人の異教の神だった。
- 彼は死と汚物の神だった。彼は常に人間の汚物に関わっていたので、“蠅の神”という名がつけられたのだろう。
- イエスの伝道の最初から、ベルゼブルはキリストの最大の敵だった。
- そして暗黒の世の中では、ベルゼブルは凄まじく威力のある存在だった。
- 彼は、憎しみや狭い心、怒りや嫉妬によって人々の生活を惨めにしていた。
- ベルゼブルはさらに全力で、イエスと神を冒涜した。
- 彼は悪行高い、偽りに満ちた醜い神だった。彼の使命は人々の人生を台無しにし、心痛と悲しみをもたらすことだった。
- それに対してイエスの使命はどうだっただろう:
「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に 解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、..」
(ルカ4:18)
- イエスとベルゼブルの違いが一目で解るだろう。一人は死をもたらし、他の一人は命をもたらす。
- サタンは私たちを傷つけようとする;
イエスは私たちを常に癒してくださる。
悪魔は偽る;イエスは真実のみを語る。
ベルゼブルは私たちを惑わす;イエスは私たちをより優れた者へと導く。
悪者は私たちを失望させる;イエスは私たちにエネルギーを与える。
- そして彼らの違いの最終的決定打はこれだ:
ベルゼブルの力は一時的なもの;イエスの力は永遠に在るもの!
- イエスが十字架を克服した時、サタンも克服したのだ。
- 聖パウロは、私たちがこのことを常に心に止めているようにと、コリントの信徒への手紙にこのように書いている。
『「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。私たちの主イエスキリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう。』
- 私たちの死を乗り越えた勝利は、サタンからのものではなく、イエスの十字架の勝利によるものであることに注目したい。
- 確かに、現在の世の中にも悪魔の働きは続いている。キリストの十字架によって傷ついてはいるが、彼は戦い続け私たちの人生に影響を与え続ける。
- 私たちは、ひたすら彼の悪行に立ち向かわなければならない。しかし、キリストが再び来られる時、サタンは完全に征服され、永久に消滅される。
- その日がくるまで、私たちはイエスに従おう。
彼は決して気が狂ったのではない。
- 彼は決して自分を失ったのでもない。
- 彼は決して悪霊に取り憑かれたのではない。
そうではなくて、
- 彼は神の独り子である。
- 彼は主の主、彼は王の中の王
- 彼は私たちの羊飼い、リーダー、先生、友、そして私たちをいつも導いてくれる方。
- 彼こそが、道であり、真理であり、生命である、その事が何よりも大切な事実なのである。
要約: 芙美Liang